生き方と住み方

先日、あることから「住まい」について考える機会がありました。「住居」というのは、単なる部屋ではありません。住まいはその人の暮らし、つまりは生き方を支える器でもあり、それは家とも言い、家はその人生の中心とも言えます。

以前、「あなたはどんなものを食べてきましたか?」という食歴のことを聴くことを書きましたが、「あなたはどんな家に住んできましたか?」もまた住歴といって大切なことです。ここで確かめているのは、つまりどんな暮らし方をしてきて今があるか、そしてどんな生き方をしてきたかの確認なのです。

生き方が素敵な人は暮らし方も素敵です。生き方と暮らし方は、その全体の働き方まで決定づけますからここの中心や基本を蔑ろにして本質の方を正すことは難しいように思います。

人は「暮らす生き物」ですが、どのように豊かに暮らすかでその人の心の豊かさや醸し出す人柄が滲みでてくるものです。そしてその暮らしの基本が「家」であるのは自明の理です。

私が共感する建築家に清家清さんがいます。この方は「住居学」を深め、住まいとは何か、そして住み方とは何かということを突き詰めておられた建築家ではないかと私には感じます。私自身も、子どもの憧れる生き方や暮らし方、そしてそこから「家」を考え、どんな家に住み、どんな住み方するのかを考えるときの基本として参考にしています。

その方がこんな言葉を遺しています。

『住まいを考えることは、家族を考えることである。住まいをどうにかしなくてはと考えるあなたは、家族のことを案ずるあなたでもある。』(ゆたかさの住居学 エビデンス選書より)

この方の住まいの定義は家族であり、どんな家に住むのかはどんな家族を持つのかということです。そして住まいを大切にするのは、一家のこと家族のことを大切にしたいと思う自分自身がいるということの確認なのです。

私自身も、家に埋炭をしたり社内に備長炭を敷き詰めるのもすべては家内の健康や平安を祈る心から自生してくるものです。家を大切にしたいという思い、家内安全のネガイは家づくりにこそ出て来ます。

そして住まいについてさらにこう語ります。

『漢字には、住まいを指すのに二つの文字がある。すなわち「宅」と「家」である。この場合、宅はハードウェアとしてのハウス、家はソフトウェアとしてのホームにあたる。ところで、東京などの地下道で最近よく見かける路上生活者のことを、ホームレスというが、厳密にはハウスレスというべきであろう。』

つまり単なるカタチとしての「宅」ではなく、そのココロである「家」があると言います。ホームレスは厳密には家がないというべきであるといいます。家がないというのは、家族がないということでもあります。「家」ということの本質は、家族がいるということです。そしてよい家とはどのようなものが善いのかということでこう言います。

『よい家とは、お金をかけるだけではなく、本当に末永く愛着をもって住めるかどうかがキメ手なのである。』

お金をかけるかどうか、安いか高いかではなく、その家のことに暖かみを感じているかかどうか、そしてその家で暮らした日々に愛着を感じられるかどうかが「住まう」ということだという意味ではないかと私は思います。そこで暮らした日々は、そこで生きた思い出でもあります。だからこそ自分の人生史において、そこに愛心を感じて手入れをすることでますます家もまた家族もまた大事にしていけるように思います。

そして最後にこの言葉で締めくくります。

『家族の気配が常に感じられる家がいい』

家に帰ってきたとき、家族の気配がある家にしていくということ。それは御縁頂き授かっているものに感謝し、よく手入れをして日々に丹精を籠め、整理整頓掃除をし、よく行き届いている暮らしが其処にあるということ、そういうものに囲まれてその人の真心が息づいている、まさに豊かさが感じられるようなものが家であり家族であり一家であるようにも思います。

家はその人を顕すとも言います。そして生き方はまさに住み方ですから、生き方を変えるには住み方を変えていくことも大事なことです。家族や一家を大切にするというのは、家を大切にしていくことです。

子ども達に何百年も続くような安心した家を遺してあげられるように、住み方を観直し、生き方も観直し、引き続き深めていきたいと思います。