先日から「住まい」のことを深めていく中で、改めてここでも日本人と欧米人の主文化の違いについて考え直す機会になっています。
以前、ある人から「なぜアメリカの番組では、リビングで家族が集まってテレビを見たりするシーンが多いか知っていますか?」と聞かれたことがありました。これは日頃は個々人で部屋にいて出てこないので、家族の約束事としてリビングに集まる時間を設けていると言っていました。
また同じように週末に教会で集まるのも、個々人の家で離れているとコミュニティが薄くなっていくので敢えて村の決まり事として教会に集まりミサを歌ったりして集団である時間を設けていると聞きました。個人主義の国の文化は、個人個人が唯一絶対の神と契約を結び、それ以外のものには救いを求めず従いもしないということを約束しているといいます。なので個人での独立というものが強く要求されますから、敢えて個人主義を優先し、その上で集まると言った「個のつながり」が文化になっています。
それに比べ、私たち日本人は「和をもって尊しと為す」というように和の文化です。個のつながりではなく、八百万の神々といって一人ひとりが神様の一人だとしてみんなが神様でありいのち(尊)であるという御縁を中心に社會が繋がり合っています。つまりは和尊文化を持っています。
なので敢えて無理に個を独立させる必要もなく、最初から御互いにそれぞれの持ち味を活かしあって助け合い仲間や家族と一緒に生きていこうとするのです。この「一緒」にという考え方は、欧米のチームという言葉以上に私たちに日本人には大切な意味があります。
そこで住まいを考えてみると、戦後、日本の住宅建築は壁を作り、ドアで閉ざして広さや部屋の数を求め続けてきました。今でも豪邸と呼ばれるものや、欧米的な高級マンションをはじめ住居は部屋数と広さばかりが取り沙汰されます。
しかし本来、和の住まい、和の佇まいというものはそういう個人を膨張し拡張させていくような部屋ではなかったはずです。それは個の膨張や拡張を望むよりも住まいと一体になっている姿、言い換えれば「暮らしと一体」になっていることが私たち本来の先祖代々から連綿と続いてきた住居ではないかと私は思うのです。
味噌や醤油、その他の発酵食品を自前でつくり、そして家の中には様々な動植物や野草などと共生し、無駄なものは一切なく、すべて循環するように家の中を満たしていました。そしてそこで暮らすのは御縁を授かった「家族」ですから、それぞれに必要な役割分担があり、それぞれの持ち味を活かしつつ、一緒に末永く暖かく仕合せに暮らしてきました。
この「暮らし」というもの、それが住まいであるのです。
住まいが崩れるというのは、暮らしが崩れるということです。生活の基本は暮らしにありますから、暮らしをしようとしない生き方というのは自分でかつての和の文化を歪めていることに他なりません。先祖たちが一番大切にしてきた、自然との共生や、家族との絆などを自ら放棄して何でもかんでも捨ててしまっていては、つながりや絆、御縁や結びつきすらも感じられなくなって独立どころかそれは単に孤立して孤独になっていくばかりです。
自らが暮らしを捨ててハウスレスにならないように、自分たちの住まいの在り方や生き方から子どもたちのために見直していきたいと思います。和の住まいとは本当は何か、それを改めて深めてみたいと思います。