見守り愛

自然と人間というテーマで考えていく中で、自然の慈しみの愛を感じつつ如何に人間を愛すかということに行き当たります。そしてそれは本来は分かれているものではなく、自然と人間とは御互いに愛が深い存在であることに気づくものです。この愛のつながりとは何か、それは信じ合うということです。

それは子どもたちの中に顕れてきます。

子ども達は好奇心で生きています。様々なことを好奇心を働かせて冒険していきます。時として危ういこともあれば、時として手を出したくなることもあります。しかし子どもはそのダイナミックな自然の中で自らで大切なことを気づき学んでいくものです。

それは直接的に論理を使い教え込まなくても、自然に大切なことを周りから感応し自らが気づき真実を掴んでいくものです。大人たちの心配をよそに、子ども達は様々な遠回りをしては大切なことに辿りつきます。

これは学びが直線的ではなく、混沌としていることを証明しています。例えば、思いやりということを学ぶのに教科書で教えれば人の嫌がることをしないと言えばいいのでしょうが実際には子どもは嫌がることをしたり喧嘩をしたり問題を起こしたり、そして泣いて悲しんで苦しんで笑って微笑んでと紆余曲折しながらついには思いやりに辿りつきます。

こちらが如何にそれを静止しても、それは静止できるものではなく学びたいからこそ事件を起こして経験をしたがるとも言えます。そんなとき、私たちにできるのは見守ることだけです。

この見守ることだけの時の自分は、自然の愛と人間の愛が一体になっていることに気づきます。人類を愛するからこそ、見守ることを拡げようとし、自然に見守られていることを自覚するからこそ私にできるのは同じように見守ることだけです。

どんなに遠回りをしても必ず気づくと信じている存在、それが見守り愛なのかもしれません。信じているからこそ、体験をさせたいと思う事。信じているからこそ、経験を許したいと思う事。これは大人の思い通りではないですが、自分が子どもの時もきっと同じように大切なことは自らの好奇心を信じて学んできたはずです。

人類がどんなに遠回りをしても、いつの日かは大切なことに気づくと信じること。

今の時代を生きる私たちができるのもまた見守ることだけかもしれません。

見守るというのは何もしないわけではありません。見守ることだけということの覚悟は、本気で見守るということですから当然、人類の先人となる私たちが一期一会に自分自身を世界の一人として独立自尊し、道を歩み切る実践を子どもたちに譲っていく必要があります。

見守り愛に包まれた自分をそのままに、子ども達を見守り愛で包んでいきたいと思います。