祖霊の真心

私たちの先祖は自然崇拝といって、自然の中に神様を見出していた民族です。古神道においても、巨石、巨木をはじめ自然の中にある畏怖を感じ、畏み奉り祈りを捧げてきました。そこには精霊というような、無生物の中にあるいのちを感じており、例えば日、月、星、水、火、土、風、光、闇、金、石といった物の中にそれぞれのいのちが宿りその和合によってこの世が成り立つことを自覚していたのではないかと私は思います。

収斂結実という言葉があります。

収斂とは散布的に位置していた複数の物を一箇所に集めるという意味です。結実は、その結果として実ったものという意味です。自然界には多様性といってすべてに分かれていく作用と、同時に収斂性といってすべてのものが一体になっていくものという作用があるということです。言い換えれば、宇宙が多様に膨張しつつも星々やブラックホールが重力と引力で結集していく作用があることに似ています。

私たちのカラダも、一つ一つの臓器はバラバラですが一体としてカラダは成り立ちます。部分だけを切り取っても身体は機能せず、実際には収斂して結実しているのが今の姿だとも言えます。

そしてこれは御縁の世界も同じものです。

数々の御縁が織りなして今があり、その御縁が結実するから今の自分のいのちがみのります。自然崇拝というものは、同じように巨石が神という意味ではなくそこの精霊から全体を観通すチカラがあったことを言うのではないかと私には感じます。

かの弘法大師空海が、山々を歩き、山々の中に神仏を彫り込みそこに祈るようにと里の人たちに伝道して歩きました。自然の中にあって、自然が顕した精霊を人々に伝えるという原始の信仰の姿を感じます。私自身も、土に触れ、風に吹かれ、火を仰ぎ、水に洗い、木と暮らすことで自分自身が自然と一体になり収斂結実していることを実感します。

太古の昔、私たちが言葉も持たないほどの時代はきっと五感を使い事物に接し、論理ではなく直感をもってすべてのものに触れていたように思います。西洋でも東洋でも世界では、どこにいっても太古の信仰のカタチはすべて同質のものです。それは自然物の中に見出しています。それを否定することで、人間はより自分の都合のよい方へと信仰のカタチを変えてしまったのでしょう。

万国共通し、悠久の歴史にも錆びつかず、自然に反することがない教えこそ真実の学問を伝道しています。遺跡の中に残存する、祖霊たちの思いや真心を受け取れる自分を磨いていきたいと思います。無字の経文を受け取り、子どもたちに祖霊の真心を受け渡していきたいと思います。