お気楽極楽

昨日、「お気楽極楽」について書きましたが少しこの意味を深めてみようと思います。

このお気楽極楽とは、天国というものではありません。よく極楽が天国だと言われますが、天国には地獄もあります。天国とは、自分の願望がなんでもかなっていくのを天国だと思われています。逆に地獄は、自分の思いどおりにならない状態、苦しく辛い状況のときに地獄だと使われます。

それに対してお気楽極楽というのは、心の状況のことを言います。よく西洋の考え方の基準に「正・反・合」という見方があります。正しいではなく反対でもなく、合わさった場所が中庸だという意味です。私はこれに対して「正・反・福」というように正しいでもなく反対でもなく福であることが本来の中庸だと思っています。禍転じて福にする、人間万事塞翁が馬とも言いますが、お気楽極楽とはそういう何があっても「福」だと考える見方のことを言います。

人は自分の願望がかなったことを天国にし、思いどおりではないことを地獄にしてしまうと常に心は天国と地獄の狭間を行き来し、天国の時は幸せだといい、地獄の時は不幸だと言います。そういう心境はとてもお気楽でも極楽でもありません。

新潟の方言で「じょんのび」というのを聴いたことがあります。これはのんびりとゆったりとするという意味だそうです。漢字で書くと「寿命延」と書きます。心が穏やかで安らか、豊に伸びやかに落ち着いていると寿命も延びていくという意味でしょう。

心配事や不安なことは、自分の中にある天国と地獄という物の見方の方に問題があるように思います。TODOリストを出しては、それが叶ったら幸せで叶わないと不幸という捉え方をするのではなく、足るを知り、頂いている方をよく観ると本当に膨大な恩恵を与えてくださったことに感謝の心に包まれるものです。

物が増えて使い捨ての文化が蔓延することで、「ないものねだり」の刷り込みはますます分厚くなっていきます。今の時代の不幸の元凶は、感謝できなくなってくることのように思います。

人は思った通りにいかなくても、思った以上のことをいただいているものです。ないものをみては焦り、周りに矢印を向けるのではなく、いただいている御恩の大きさをみては自分に矢印を向けて内省することで心は落ち着いてくるものです。

お気楽極楽の境地というものは、安心している心境であるということです。きっと福になる、きっと善いことになると運を信じて今此処に集中することは福を呼び込みます。

福を呼び込むというのは、信じるということであり、私たちはそれを聴くという実践によってその福を広げていきます。日本の祖親には、「アメノウズメ」という先祖がいました。踊りの神様であり、和来の神様です。世の中が暗闇に沈むとき、踊り詠うことで福を呼び込みました。争い世の中が乱れるときもまた、踊り詠うことで福を呼び込みました。

私たちカグヤの理念の原点には、このアメノウズメの実践があります。

引き続き、お気楽極楽を広げて今の刷り込みの社會に真の豊かさと智慧を広げて子どもたちの未来が笑いに満ちるように生き方を精進していきたいと思います。

御気楽極楽~頑張らない~

頭で考えているように完璧にやることとベストを盡すということは異なります。頭で考えてここまでやればいいと思って目指す完璧は先に正解がありそれに近づけようとする努力のことです。そしてベストを盡すというのは、与えられている状況や環境の中でできることを精一杯やるということです。

しかしここに落とし穴があるように思います。

よく「手抜き」というのと「肩の力を抜け」という言葉があります。手抜きというのは手間を省いてしまうことを言います。本来の手間暇を怠りいい加減にやってしまうことを手抜きと言います。それに対して肩の力を抜けというのは、気楽に安心して物事を受け容れ取り組んでいくということです。言い換えれば頑張り過ぎないといも言えます。

これらのことが教えるのは、「頑張る」ということについての本質です。この頑張るという字は、我を張るとも言われます。自分の我を押し通すとき、頑張るというように使われることが多く、よく頑張りますというと無理をしてでも我慢してやりますという使われ方をしているように思います。

しかし本来、自分のやりたかったことをやっているはずが思い通りにいかないことで頑張ろうとし、そのことから無理をしてでもやるという意味になってしまっては頑張ると余計に物事は頑なになり苦しくなる一方です。では「頑張らない」というのは何か、それはありのままを受け容れるという意味ですが実際は目的が達成しなくてもやるだけやってみますという意味に使われています。

これは教育の刷り込みであり、小さい頃から勤勉を教え込まれ無理にやらされてきたり、考えさせずやらされることが沁みつくと「頑張る」という刷り込みにもっていかれてしまうのです。

今の自分をあるがままに受け容れることや、今の状況がもっとも自分に相応しいと受け止めること、そういうポジティブな心の持ち方ができるなら「今此処から学び直していこう」という心境を得ることが出来ます。そしてそうやって少しずつ我を手放すことをやっていくのが頑張らないことになり刷り込みも取り払われます。

頑張るという言葉の中には、もっと我を強くしてやれ、今のままではダメだといったネガティブな意味が潜んでいるように思います。本来、ありのままの自分を受け容れることは自分の長所と欠点を自覚する最上の道です。その上でどのように欠点を補い、どのように長所を伸ばすか、自分本来の持ち味に気づきそれを活かそうとすることではじめて人は本質的に人事を盡していくことができます。

単に勤勉に頑張れば人事を盡しているのではなく、今やっていることのすべては本来自分がやりたかったことだと初心を思い出し自分の天命を信じて今に集中して”お気楽極楽”に実践していくことができるならその人は本質的に人事を盡していると言えると思います。

もちろん大事な局面では「踏ん張る」必要があるときもありますが、決して「頑張る」必要はないように思います。老子に、「柔弱は剛強に克つ」という言葉があります。しなやかで嫋やかな生き方が、堅強で頑固な生き方を凌駕するという意味でしょう。

自然界も同じように、頑張らず受け容れてきたから悠久の年月変化を已まずに生き残り続けることができたように思います。今の自分を信じることは、今までの自分、これからの自分、そして世間様、自然界、全てを見守る存在として信じようとすることです。

今の自分が最も今に相応しいからこそ、今起きる出来事は訪れます。そしてその出来事を一つ一つ感謝でお受けして学び直していくことで人はその人らしく成長していくように思います。自分の決めた道だからこそ与えられた道を選ばないで歩んでいくことができるならその人は素直であり謙虚になっていると言えます。

無理をするのではなく、御気楽になることが何よりも信じるチカラを得て最終的な目的を果たす持続力になっていくと思います。まずは自分自身をお手本になるように日々のブログも、日々の実践もまた、御気楽に愉しんで味わい盡していきたいと思います。

孝行の徳

「孝は百行の本」という諺があります。これは日本の昔からある諺ですが、全ての善行の根本は全て親孝行にあるという意味です。

他にも似ている言葉に、「孝悌は仁を為すの本、孝は百行の人の恒徳となす、孝は万善の本、孝は道の美にして百行の本なり」があります。

どんなに正しいことを言おうが示そうが、親孝行の真心を自覚せずに真に善いことはできないということでしょう。中江藤樹に「父母の恩徳は天よりも高く、海よりも深し」があります。これも全ての根本に「孝」があり、その孝行を自らが目覚めることではじめて思いやりや真心の意味を知るということなのでしょう。

今の自分があるのは偉大な無償の愛によって存在できているとも言えます。

今の自分が生きてこの世に存在できているのは、まず両親が自分を産んでいただいたからです。その両親はその先の両親が産んでくださってと遡れば、いのちをつなぎつむいでくださった方々の愛を感じます。そして今の自分があることを思えば、様々な困難や艱難を乗り越えて周りの方々が偉大な恩徳を与えてくださった御蔭様で今の自分が在るのを知ります。

そしてそこに至る入口はこの親孝行のところに存在することに気づきます。

よく考えてみると、人間は生まれてからすぐには一人では何もできません。両親に育てて見守ってくださる時期があり大人になり社會に出ます。その後も、陰ひなたから見守り心配してくださっています。これはまるで先祖や祖神様の真心と同じで、子子孫孫の私たちのことをずっと見守り愛してくださっています。

私たちはその愛の中で、信じるということを学び、そして感謝と報恩を実践していくようになります。そして感謝報恩を実践するとき、それは孝を自覚するに至ります。

与えていただいているものに対する感謝の心に対し、自分もその真心と一体になることを孝行と言います。自分の存在が偉大な見守りによってあることを知り、偉大な見守りを自分も実践していこうとする心、その本は「孝」にあるということです。

吉田松陰の辞世の句に「親思う心にまさる親心けふのおとずれ何ときくらん」があります。親の気持ちは親になってはじめて気づくものかもしれません。その何に気づくかは「孝」に気づくということです。「祖父母との思い出は家族の智慧である」という言葉も残っています。

どれだけ自分のことを大切に思ってくださっている周りがあるか深く反省し、自分勝手に我儘ばかりを言うのをやめ「孝行の実践」に精進していきたいと思います。子どもとの思い出は次世代の真心につながっています。感謝報恩、孝行していきたいと思います。

百福政治

全ての物事はバランスによって維持されます。これは天候も同じくバランスが崩れることによって嵐が起きたり干ばつが来ることがあります。常に微妙なバランスを維持しているからこそ、中庸であることを維持できます。

これは人の感情や心境なども同じです。感情に呑まれて心境が乱れる人は中庸ではなくなります。するとそこからバランスが崩れ、様々な偏った判断をしてしまいます。中庸にはこうあります。

「喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中という。発して皆節に中る、これを和という。中和を致して、天地位し、万物育つ」

意訳ですが人に喜怒哀楽があってもそれがじっくりと安心安定している、そして発しても常に節度と分を弁えておる。これが和である。その中和があれば天地はバランスを保ちすべての万物は育つといいます。

人は自分が偏ることでバランスを崩して本来の中和から遠ざかるものです。これは他人との関係だけに限らず、健康も含めて、あらゆるものの中にバランス感覚というものが求められます。安心した世の中を創ることも、安心できる人間関係を創ることもこの中庸の徳を学び実践していくことが何よりも理想としたのが孔子であり、政治の実践者です。

かつて中国の鄭の名政治家に「子産」がいました。孔子にして「剛ならず、柔ならず。至高の和の精神」の人物と讃えられた人です。政治を火と水に例え、法と徳のバランスをどのように維持していくのかといった実践の要諦が遺っています。

人はみんな自分勝手ですし、それぞれに欲望も理想もありますから同じように他人が安心して暮らせる政治を行うことは至難の業です。その時、こうやればいいという方法があるのではなく常に中庸を執っていくしかありません。

「ちょうどよい」ところ「塩梅」を確かめることが出来るならその人は中庸の道に入っているとも言えます。まだまだ自分は実践がおぼつかず、偏ってしまった後始末に追われる日々でもあります。

中庸には「偏らざるをこれ中といい、かわらざるをこれ庸という。中は天下の正道にして、庸は天下の定理なり」とあります。時代の中で何が変わっていき、何が変わっていかないのかを維持できるものこそ中庸の実践者です。不易と流行を自覚するには、中庸を学び実践の中で謙虚さと素直さを磨いていくしかないようにも私は思います。

王道というものは、常に小手先の技術を喝破しますから直向きに正直に誠実に千里の道も一歩からと取り組んでいくしかありません。

最後に子産の遺訓です。

「厳ならず、緩ならず。剛ならず、柔ならず。政を布くこと適々、百福ここに集まる」

百福が集まるような生き方と働き方を精進していきたいと思います。

 

人生の醍醐味~今此処絶妙~

人はなんでも便利な生活を続けていくと感謝がなくなっていくものです。それに自分の思い通りの生活をしていると傲慢になっていくものです。人はあるものがあたりまえになることで順応しますが、本来、当たり前ではないものに感謝できなくなると何か事が起き教えてもらえるものです。

例えば、健康もそうですが普段は何事もなく生活していても健康を害することがあればすぐに健康の有難味がわかります。また他にも、両親や子ども、仲間や友人なども同じく失ってみて当たり前ではないことに気づきます。

水や空気、そして太陽の光や風に至るまで、当たり前にあると思っていることが間違えであり失ってみてその偉大さ尊さを実感できるのです。

これは生き死にも同じです。

生きていることの有難さは、死ぬことがあるからはじめて深く味わえます。死ぬことがなければ生きることの真意が分からず、一日一生一期一会にいきようとは思わないものです。人間は、どちらか自分に都合の善いことだけが発生するのではなく同時にもう一方のことも知ることでその真価を味わえます。

出会いの素晴らしさを知るものは、同時に別れの素晴らしさも知るのです。

つまりはその両方を深く味わっていくことが人生ですから、如何に今を大切に生き切るか、そして先のことを迷わず後のことを憂えずにもったいないと味わっていくのならそれが何よりも人生の醍醐味を感じることになるのでしょう。

別れが怖いから出会わないでは本当の素敵な出会いはありませんし、死ぬのが怖いからでは本当の素晴らしい生はありません。怖いから正しいことばかりをしようとする人もいますが、正しいから怖いことがなくなるわけでもありません。

大切なことは、生まれてくる前に選んだはずの今の自分の人生をどこまで深く味わい盡していくかということでしょう。他の人の道に自分の道を左右され迷うのは実践が足りないからです。迷わず自分の道を歩むというのは、二度とないこの道を深く味わっていくことのように思います。

人生道場は修行の連続ですから、初心を忘れずに実践を続けていくことで余計な迷いを振り払って今此処に集中していくことのように思います。何が訪れたとしてもそれは天の計らい、神様の仕業だとその面白さやその御縁を味わい、意味を紡いでいけることは仕合わせなことだと思います。

子ども達の未来のことを色々と憂うこともありますが、今から離れては本末転倒ですから「今此処絶妙!」と面白く味わい、その実践を着実に続けていきたいと思います。

自由という場

自由の森の学園祭に参加し、子どもたちのイベントの様子を見ていると自由の入口にいてこれからどのような道を歩んでいくのだろうかと未来に思いを馳せます。見守る保育も同じように子どもの成長を見守り続ける保育ですから将来、あの子どもたちがどのように自らを磨き育ち充実した仕合わせの人生を送るのだろうかと見守っています。

子ども達はそこで一つ一つの大切な人生の智慧や哲学、そして生きるチカラを得ては卒業し自分の人生の道を歩み続けていきます。子どもを信じて見守ることで子どもはどの時代でも自分らしく生きていこうとする道に出会うように思います。そんな時、様々なことを考え、本当の仲間に出会い、美しい思い出を育んでいくのでしょう。

学問の素晴らしさとは、学習する面白さを体験することです。面白い方を選んでいき、愉しいと感じる方を選ぶのは決して楽をすることを覚えることではなく苦しい方を選んでも自分らしくいることを優先する生き方のことです。

今の時代は、競争する仕組みの中で無理やりに勉強をさせる時代ですから楽を選ぶこと良いことだとさえ思われています。しかしもしも競争する仕組みがないのなら、周りは敵やライバルではなく自分を磨き合う「仲間」ですから御互いから学び合い、「助け合う」ことの本義を学習していくことができます。今の時代の「自由」は誰かの教育の刷り込みを取り払う一つの智慧でもあります。

本来、人間は助け合いといった共生とそして貢献を学ぶために学場は有ります。そしてそれはどの学場を卒業してもスケールを拡げて別の学場でまた助け合いと生き切ることを学び続けます。今の自分があるのは、先祖代々の御蔭様であり、多くの人たちがその時代を生き抜いて仕合わせであれたのも人々の御蔭様に由ってです。それを自覚し自分をどうやりきっていくかが学場で学ぶテーマであり、そしてルールです。

本来の教育の価値は、確かに「自由という場」の中でこそ発揮されていくものです。なぜならその時その時をどうやりきって今を生き切るかは常に自分次第であり、正解がない中で人生を歩んでいくのが子ども達ですから安易な正解を教えるよりも、必死に自らの魂を高め磨き続ける周囲の大人の実践と歴史が何よりのお手本になっていきます。

自由に伴う責任は常に自分次第ですから言い訳も何もなく、与えられる御縁を信じて「唯今を遣り切る」ことのみです。遣りきるというのはなんだかちょっと硬い言い方ですが、よりよく言い換えれば「人生はお祭りだ」ということでしょう。人生は自分次第、真に苦楽を楽しんだ者価値だということです。

子ども第一義の理念がこれからどうなっていくのか、長いスパンでこれから先の時代の子ども達を引き続き見守っていきたいと思います。

自由の心構え

昨日は、埼玉にある自由の森学園の学園祭に参加する機会がありました。子ども達がそれぞれに日頃の部活動の成果を発表したり、自分を表現する場があるのですが大変ユニークでそれぞれに自分らしさを発揮して愉しんでいる様子に好きなことをやっていくことの豊かさを再確認しました。

昔から「好きこそものの上手なれ」という諺があります。好きなことは自ら熱中しますから上達も早いのです。自分からやりたいと思ったことに主体的に専念できる人は、ぐんぐん実力も伸びて次第にそのものと一体になっていきます。嫌々ながらやっていては決して何事も上達しないという故事です。

自由というものを満喫するというのは、自らの中に精神的自由があってこそ本質的な自由を得られるのかもしれません。

昨日は学校内を見学する中で、子どもが書いている標語のようなものが掲げてあるのを発見しました。 そこには「心構え2か条」とし、こう書かれていました。一つ目は「一生懸命に」、そして二つ目は「自分の選択に責任を持つ」と。子ども達が自分の自由を獲得するために、大切な要素を書き出したものでしょうが自由を学ぶ校風があることを子どもたちの実践する姿によって実感できます。

そもそも精神的自由は、やらされているという受け身の態度では得られることはありません。何でもそうですが自分でやっている人だけが同じ体験をしてもそこから大切なことに気づき、その人生を味わい自らを磨き、その魂を高めていくことができます。

しかし怠惰に流されてしまえば、本来の人生の目的も忘れ休憩しているうちにあっという間に人生の時は過ぎ去っていくかもしれません。

一度きりの今世の人生をどれだけ本気だったかは、その人の主体性や自由の精神に左右されていくものです。自分が初心を欠かさずに実践すると決めて、自分の初心に取り組むものたちはみんな自由を持ちます。そこに「真摯さ」というものがありますが、自分に正直に取り組むからこそその人が光り輝いていくのでしょう。

自由の場が自然の姿そのものであり、それは本来の生き物の「いのち輝き成長する」キッカケを引き出していきます。

日々は選択の連続ですが、過去の自分の選択が今の世界になっていきます。そういう意味では、選択をする自由とはとても厳しいものですがそれが自らの足で歩んでいく実感そのものでもあります。

自分で決めた人生を歩めるよう、子ども達をどう見守り、どう信じるかは周りの大人たちの生き方が決めます。表面に出ているものの奥にある、あり方を子どもの自由に取り組む姿から学び直してみたいと思います。

理念と試練

人は誰しも新しいことに挑戦をすると決めれば同時に試練というものが訪れるものです。この試練とは何かといえば、成長するということです。今のままではなく、理想に近づこうとするならば当然そこには試練が待ち受けています。その試練に立ち向かい、それを乗り越えるときその人は成長したと言えると思います。

しかしその試練を避けては、試練からいつも逃げていたら成長が止まってしまいます。本来、目指している理想や理念があるのならそれに向かって片時も休まずに足を前に出して歩んで往く必要があります。自分の与えられた場所で人はそれぞれに試練がありますから、その試練を乗り越えて新たな自分に出会い続けていくのが人生の醍醐味のようにも思います。

理念というものは、その人が守りたい理想、または本質、言い換えれば志魂の声とも言えます。それを発してそれを信じるという実践は、常に物事が発生したときに判断基準や優先順位を理念に合わせて自分が守ると決めることになります。それを決めると決心したときからすでに試練ははじまっており、様々な出来事が発生したとしてもその時こそ「自分が試されている」とし、今まで安易に避けてきたものと向き合い、そこに自らで立ち向かい乗り越える勇気が必要になります。

この勇気は、信じるチカラのことであり試練を成長の善き機会機縁と捉えてピンチをチャンスにして福にしていく燃料になります。

気持ちがネガティブの時は、問題が起きるのを嫌がるものです。しかし気持ちがポジティブに転じていれば、問題が起きていることは自然治癒がはじまっているのかもしれないとし、いよいよ成長に転じているのだと信じて試練にじっと耐え忍び実践を積み重ねていけば時が次第に解決してその分、自分自身の信念もまた鍛えられていくように思います。

かのインド独立の父である、マハトマ・ガンジーにこういう言葉が遺っています。

「不幸は私たちに与えられた試練である。この試練を乗り越えたとき、すべてはきっと好転する。そう信じて、辛抱強く耐え抜こう。耐え抜いたとき、あなたはとてつもない力を手にしていることだろう。」

理念を発信するということは、それだけ世の中や自分の心に対して正直で居続けるということです。外側で様々な現象が発生したとしても、内側では不動の如く理念を守り続けるという強い意志と心の精進の継続が必要です。しかしそれは決して不幸なことではなく、有難い試練をいただいているとし、「きっと善いことになる兆しだ」と「天命を信じ人事を盡す」と転じていければ視野も広がり感謝の心で歩ませていただけるのかもしれません。

そんな試練の時、人間は寄り添って見守ってくれる存在があることで私たちはその燃料とも言える「勇気」を与えられます。見守るを学び直し実践するというのは、須らくこの理念と試練の中にこそあるのかもしれません。

見守り見守られる間に在る美しい魂の邂逅を味わっていきたいと思います。

清富の働き方

今の時代は豊かさの中で心が貧しくなってきていると感じることが多いと言います。それは暮らしの中にも観えてきます。住まいにおいても単に寝れればいいとし、食べ物においてもお腹が満たせればいい、その他、服装も同じ制服であればいいというようにそのものを愉しむよりもビジネスや消費に不必要なものはいらないような生活スタイルが広がっています。

その中で人は次第に幸福感というものが薄れているように思います。お金は膨大にあっても貧しい人もいれば、お金がそんなになくても豊かな人がいます。これは生き方や心の持ち方、その人の人格や徳なども関係し、昔なら清貧といって慎ましく暮らしていた人が美しいとされていますが今の時代は清富といって物があっても豊かである人が清々しいように感じます。

イエローハットの鍵山秀三郎さんは、掃除道で有名ですがその発言の節々には非常な謙虚さを感じます。この清富の考え方について参考になるところがあり紹介します。

「トルストイの「戦争と平和」の一節に「いっさいの不幸せは不足から生ずるものではない。あり余るところから生ずるのだ」とあります。これはまさしく日本人の現状ではないでしょうか。だからといって、豊かさを捨てて貧乏になるということは、現実には不可能です。ですから豊かさを保ったままで謙虚になる道を探っていかなければなりません。

そのためには、自分の体や手足を使って実践を重ねることが、いちばんだと思います。自分の体を使った実践によって、私たちは人の労働を正しく評価できるようになります。実践していない人には、他人の労働は自然現象のように見えるらしく、正しい評価ができません。

たとえば、社員たちが職場をゴミだらけにして退社した後、深夜に清掃会社の人たちが来て掃除をします。翌朝、社員が出社したときには塵ひとつ落ちていないきれいな職場に戻っています。社員たちには、それがあたりまえの天然現象のように見えてしまうのです。そうした環境のもとで、人間はいとも簡単に傲慢になります。」(幸福への原点回帰)文屋

今の時代は、自分の手足や労働の汗をかかずに働くことばかりが働くことだと勘違いしています。頭でっかちにやっているばかりで、心も体も用いた労働ができないから感覚がおかしくなってきます。

本来、身のまわりに在るものすべては誰かの御蔭様で存在しているものです。それを感じるチカラというのは、自分も同じように取り組んで働いてみて実感するものです。それを私は「実践」といいます。心も体も用いて誰かの御役に立つために働いていこうとする生き方と働き方が一致した具体的行動こそ「実践」です。

その実践を怠り、頭と心を分けたり、仕事とプライベートを分けたりしていたら 実践することができなります。そして人が実践を怠るとき、傲慢になっていくように思います。実践はとても謙虚なもので、「させていただく」ものが実践です。自分が誰かの御役にたっている実感もまた実践をすることで感じるものです。

そしてこの実践をする人のことを「実践人」とし、この実践人こそが「清」つまりは清らかで清々しい本物の志事(仕事)に通じているように私には思います。だからこそ清掃もまた人が清らか=幸福になっていくということのように思います。

原点回帰というのは、本来の姿はどうだったかを思い出すということです。カグヤは実践が多い会社ですが、実践が多いというのはそれだけ清浄にしていくということでもあります。日々に清浄であることは、日々に正しく労働の価値を再認識していくということです。

世の中の流れに流されないように理念や初心に助けていただいていることを忘れず子どもたちのモデルになる様に、感謝のままに実践をさせていただきたいと思います。

王道~美しい魂~

「王道」という言葉があります。これは孟子が「徳を以て仁を行う者は王たらん」すなわち仁義の徳が善政となって流露するのが王道であると説いたことが有名です。言い換えれば、この王道とは原理原則のことであり、人としての道、大義のことです。

色々なリーダーはいますが、本物のリーダーとは時代、場所、国家、様々な違いや異なりなどもすべては関係がなくこの原理原則を実践するものこそがリーダーの本質とも言えます。

色々なリーダー論があり考え方も無数にありますが、その大本にある真の根本はこの王道のことです。この王道が実践できてはじめてリーダーはリーダーと呼べるものです。刷り込まれ本質もわからず、枝葉末節の派手な理論や仕組みにいくら長けて世の中の流行にのったとしても、この原理原則や王道を知らないし、やらないのではそんなリーダーは本来の意味でのリーダーではないと私は思います。能力がある人ばかりがもしもリーダーになってしまったらこの世から王道が薄れていくばかりです。

しかし古今、世の中には様々なことをいう人がいますが粛々と大義を実践している人は本当にごくわずかですが存在します。そういう大義の本質を学び直して、克己復礼し、仁に帰す人があるからこそこの世に王道が消えることはありません。

そういう日本のリーダーの一人に稲盛和夫さんがいます。生き方や働き方をはじめ、本来の人生の歩み方を様々な著書で紹介しています。今の時代は、粛々と実践して長い時間をかけて積み重ねて磨き上げて道を歩もうとするよりも簡単便利にエスカレーターやエレベーターに乗り込もうとする人たちばかりになっています。そういう時に、改めて自分の足で歩くことの大切さを後ろ姿で見せてくれる人がいることは本当に有難いことのように思います。そういう人物をどれだけ発掘して見直し、この世に輩出していくか、それがこの国の未来の姿であり教育の要であろうと思います。

稲盛和夫さんは西郷隆盛の座右「敬天愛人」を京セラの社是にしており、常に社員は原理原則に沿って王道を往くことを何よりも重んじる経営をしておられました。稲盛和夫さんの著書「人生の王道」(日経BP社)中に王道とは何かについて書かれている文章にとても共感するので紹介します。

『一国の宰相だけでなく、私たちにもやらなければならないことがあります。それは、「日本を知る」ということです。この国がどのようにして成り立った国なのか、我々の先祖がどういう生き様で国をつくってきたのか、素晴らしいことも過ちも、自分たちの国が歩んできた道のりを知ることです。

私は、心のあり方、考え方が、人生においていかに大切かということを、社員によく理解してもらいたいがために、次のような「人生の方程式」というものを考えました。(人生・仕事の結果 = 考え方 × 熱意 × 能力)

そして、何よりも大切なのが考え方です。考え方とは人が生きる姿勢であり、哲学、思想、信念、あるいは人間の志、心がけといってもよいでしょう。』

ここで何より大事なのは「心がけ」だと言います。考え方こそが生きる姿勢であるから、その考え方が原理原則、つまり王道に則っているかというのが自然体の人生において中心であるということを言います。考え方が間違い心がけを忘れると、どんなに熱意と能力があってもそれは成就しないということです。

なぜならそもそもの「考え方」が、邪道や覇道になり徳というものの姿を見失うならば人の道から外れますから自然の摂理や王道そのものから離れてしまいます。それは大きな目で観て地球が常に回転し廻るように、そして土や火、水がとけ合い循環する様に、御縁や出会いの繋がりによって自然が生成するように、本来の原理原則は悠久の時を永遠の調和のままに道を歩み続けている存在です。そこの中にあって生き活かされる私たち人間だからこそ本来の姿から目を離さず、王道の実践をもって歩みを已まない生き方と働き方を一致させていくことが「本来の人の道」、つまりリーダーのリーダーたる由縁なのでしょう。

そして文章ではこう締めくくられます。

『人生の目的とは、お金儲けや立身出世など、いわゆる成功を収めることではなく、美しい魂をつくることにあり、人生とはそのように魂を磨くために与えられた、ある一定の時間と場所なのだと私は思うのです』

・・・自らを磨き美しい魂をつくること。

美しい魂とは、生き方から出てくる王道の中にある原理原則の鑑です。

子ども達にどんな背中をみせていきたいか、それはこの美しい魂の中に存在します。王道を思う時、私たちの祖神、天照大神の八咫鏡のことを思い出しました。引き続き王道を志し、日々に精進していきたいと思います。