至誠無息

四書の中に「中庸」があります。そして中庸の中に「至誠」という言葉があります。この至誠とは、日本では真心と訳されます。孔子は中庸の徳は何よりも尊いといい、その後、孟子は「至誠にして動かざる者は未だ之あらざるなり」といいました。そして吉田松陰はその「至誠」を座右にし、何よりも真心の実践を学問を通して貫き通しました。

この中庸の中にある至誠とは何かということを少し自分なりに整理してみたいと思います。

中庸の中には「至誠無息」という言葉があります。これは真心は已むことがない、私の意訳だと自然界のように天地の恩恵は悠久で広大に永久に与えられているということをいうように思います。

私たちは自分で勝手に生きているように感じても、実際は無償の愛で様々な恩恵をいただいています。当たり前に生きていますが、光も水も空気も土も温度も地球も月も太陽も宇宙もその存在がなければ生きていることすらできません。人は厳しい環境に置かれる方が我欲を減らせても、満たされ過ぎる環境でも我欲が増えることを知りません。当たり前のことを当たり前にしてしまうと、感謝を忘れ自分の価値観に染まり本心を偽れば次第にいただいている真心を感じなくなりますから、「至誠無息」とは程遠くなっていきます。

本来の至誠や真心は、心が澄み渡るとき、もしくは自然と一体になるときに顕現してくるものです。それはまるでいのちそのものの姿で生きる自然界の生き物たちの心境です。西郷隆盛の座右に「敬天愛人」がありますが、字は異なりますが天が自分を無償に愛してくださるように自分も人を無償に愛するというのはまさに天地一体、真心の中にいることを忘れない生き方の座右とも言えます。

中庸にはこう記されています。

「故に至誠は息むなし。息まざれば則ち久しく、久しければ則ち徴あり、徴あれば則ち悠遠、悠遠なれば則ち博厚、博厚なれば則ち高明なり。博厚は物を載せる所以なり。高明は物を覆う所以なり。悠久は物を成す所以なり。博厚は地に配し、高明は天に配し、悠久は疆り無し。かくの如き者は見さずして章し、動かざるして変じ、為す無くして成る。」

これは自然の姿そのものです。

自然というものは、晴れては降っては吹いては時折休み、そしてまた活動します。それはどんな小さな生き物や、どんな多様ないのちであれ、必死で生き続けています。この必死で生き続けるというのは、いのちを使い切るといってもいいかもしれません。このいのちを使い切る中に真心があり、全身全霊で生き切る中にこそ至誠が息づいています。

人間はややもすると主人公であることを忘れ、自分の本心を偽り自分のいのちを使おうともせず他人に依存し、自分自身を高めて自分自身になっていくことを無意識に諦めていくように思います。社會の中に迎合しているうちに、様々な刷り込みに出会い、頭で分かったような生き方をしていると至誠が観えなくなってしまうものです。

一期一会に順縁を味わい盡す生き方をするならば、自ずから至誠無息の境地に達するのではないかと思います。そのためには、どれだけ真心を盡したかを常に三省し、真心ではない自分と向き合って自分を自分で育てていくしかありません。

子どもたちに見せる大人の背中として、この「至誠」というのは何よりも偉大な勇気を与えるものです。自然の中に入れば入るほどに、穏かな心でいのちを感じるとき、至誠は永遠であることを悟ります。

至誠を感じつつ、真心の日々を歩んでいきたいと思います。

 

真心を見守る

人は、向き合って話をするのと同じ方向を向いて話をするのは異なります。向き合ってしまえば相手からどう見られているかという自分のことを気にしてしまうものですが、同じ方向を向いているのなら自分のことは気になりません。相手からどう見られているのかが気になってしまえば相手のことを分かろうともせずに、自分のことばかりを気にしてしまうものです。

同じ方向を向くというのは、同じ理念を持つということに似ています。何を目指しているのか、何のために一緒にいるのか、そういうものをしっかりと自分の心の中に握り離さずに持つならばもっとも大切なことはその本質に対して自分がどのようにするのかということとの正対が必要なだけになります。

しかし実際は、目的や本質から離れて保身や自分の見せ方や見え方ばかりに終始してしまい対話が対決のようになってしまっているのものです。

本来の対話は決して向き合ってはできないもののように思います。同じ方向を観て、その上で自分の意見を伝え互いに分かり合って通じ合っていくものです。そのために自分がなぜこれをやるのか、自分が何のためにここにいるのかといった初心を忘れずに互いを思いやり話し合いをしていくのが本当の対話でもあります。

自我や自意識に呑まれるのは初心や理念を忘れてしまい、自分の本心を優先するよりも目の前の目に見えるところだけに執らわれてしまっているからともいえます。そういうときは、自分を気にせず本質を優先し分かってもらおうとするよりも相手のことや全体のことを分かっていこうとしていくことが大切なことのように思います。

自分を気にしすぎれば思いやりが欠けていきます。そして自分が大変で余裕がなければないほどに視野は狭まっていきます。視野が狭まればまた余計に目に見えるのは自我の価値観のメガネで見たい世界しか映りませんから悪循環に入ってしまいます。

視野を広げるということは、自分の価値観の枠を手放してみるということです。この人と話せば視野が広がる人がいますがその人はいつも本質を見つめ、初心を忘れず、理念を実践する人です。覚悟を決めているから余計な悩みも惑いも少なく、あまり価値観に心を染められることもありません。

そういう理念や初心こそ本来見つめるものであり、見つめるものをあまり周りから見られる視点にしないことが心を澄ませていくことにもつながっていくのでしょう。本来の自分自身が憧れた生き方や、自分の魂が求める生き方を優先していくことが理念の実践です。

理念の実践を通して自分自身の我執に打ち克ち、感謝の心で恩返し恩送りしていくことで本当の自分自身に出会えます。子ども達のためにもその人の我儘を守らず、その人の真心や理想を見守れるように精進していきたいと思います。

自分自身の本心~本心の棲家~

人は自分自身との付き合い方が、他の人との付き合い方になるものです。どれだけ自分の本心に対して誠実であるか、そして正直であるかは周りとの信頼関係を結んでいくためにもっとも大切なことであろうと思います。

しかしこの自分自身というものをいつまでも分かろうとせず、自分を誤魔化してばかりいると自分の本心というものを見失ってしまうように思います。なぜ本心というか、それは心とは別に本物の心と書いて本心だからです。心と思っているものは実は思い違いで、本来の心は素直な自分のことです。

如何に素直になるかは、その人の自分自身との誠実な向き合い、そして感謝に根差した正直な対話によって顕れます。言い換えるなら素直でなければ本心とは出会えず、素直でなければ自分自身でもないということです。

かつて神道禅仏一体を究めた慈雲尊者が「もとよりも直ぐなる道をとやかくと思ふこころにまどわされ行く」と言いました。意訳ですが本来は素直であるものを、自分の価値観であれこれと惑うがゆえに道から逸れてしまうという意味だと私は思います。

そしてその和歌の中で私が好きなものに「心」についてこう詠まれます。

「心とも知らぬこころをいつのまに我が心とやおもひ染めけむ」

つまりは心は自らの本心を知らないうちに勝手に自分の心を別のものにしてしまうということです。それだけ人は素直でなければ己自身を知ることはなく、結局は我執や自分の頑なで狭い価値観の中で勝手気ままに良し悪しを決めつけては物事の道理や本質を見失ってしまうということでしょう。

誰しも自分の本心を見つめるならばあまり我を張らない、つまり頑張らずいつまでも頑固に自分の価値観を周りに押し付けないことです。その上で、我を立てずその我を倒して順縁変化を愉しむことで次第に自らの本来の姿、本心がどうなっているのかに気づけるようにも思います。しかしそれでもなかなか気づけないのが自分自身の本心ですから、我を張らず本質的で実践を続けているような道の信頼できる人の話を素直にちゃんと聴くことができるようになることが最初の素直の入口なのかもしれません。

そして自分の今いただいている御縁を、「自分にもっとも相応しい」と感謝できるのはその御蔭様に気づけるからです。自分が”なにものか”を己事究明するとき、自分がどれだけ見守られて御蔭様の中で生かされ今があるか、自分が偉大な恩恵によってできているかが自明してくるはずです。それを自覚とも言いますが、自分のカラダをはじめ環境や出会い、御縁すべてが有難い”なにものか”によって与えられていることに気づきます。その真心と感謝に出会うからこそ報恩といって、その御恩に報いたいと自然に願う心が本心の棲家であろうと私は思います。

慈雲尊者は、十善という自戒を立てて実践をなさっていましたがそれぞれに人は本心が観えなくならないようにそれぞれに恩送りや恩返しの日々を歩んで素直に磨きをかけて精進していく必要があるように思います。何をするにもまずはじめに理念や初心を忘れないのはまずその我執に気づけるかどうか、本来の姿に戻ってこれるかどうかのキッカケに過ぎません。そのあとは、やはり十善のような実践を積み重ねていくことで我が立ちすぎないように謙虚に学び直しを続けていくことが最善のように思います。

最後にその慈雲尊者の「十善」を紹介して終わりたいと思います。

第一 慈悲、不殺生戒

第二 高行、不偸盗戒

第三 浄潔、不邪婬戒

第四 正直、不妄語戒

第五 尊尚、不綺語戒

第六 柔順、不悪口戒

第七 交友、不両舌戒

第八 知足、不貪欲戒

第九 忍辱、不瞋恚戒

第十 正智、不邪見戒

子ども達に譲っていく生き方に照らしつつ、自分自身の心を静かに見つめて精進していきたいと思います。

恩送り

「恩」という字があります。この字の語源は、慈悲や恵みを顕します。「恩送り」という言葉があります。これは何ものかからいただいた慈悲や恵みを同じような心で他のものへと送るということです。

この「恩送り」というのは自然の在り方や生き方そのものであり、恩送りをする人はみんな自然の恩恵に感謝できている人とも言えます。

そして他にも、恩返しというものがあります。この恩返しは、何ものからかいただいた有難い慈悲や恵みを同じように感謝の心を忘れずに報いていきたいと願う心です。どちらにしても、恩返しも恩送りもそれは感謝を忘れない人が実践している心の境地とも言えます。

これらとは別に、恩知らずという言葉があります。これは恩を忘れたということではなく、感謝の心を亡くしてしまったという意味でもあるのでしょう。本来当たり前ではない、様々な慈悲や恵み、その恩恵というものに感謝しなくなっているとその人は恩知らずとも言えます。昔「恩樹」という言葉を知った時に、如何に樹の恵みが有難いか、そうやって周囲を活かすような存在になりたいと感じたことを思い出します。樹がなければ恩も知らず、感謝を忘れては樹も観えません。感謝の心とは全ての基本であり、いただいている慈悲や恵みを当然にし何でも自分のものにしては傲慢にふるまえば欲が増長し必ず恩知らずになり慈悲や恵みから遠ざかってしまうように思います。

感謝を忘れないといのは、常に恩返し恩送りを忘れていないということです。恩が観えるかどうかというのは、そこに自分に与えてくださっている恩恵に生きているという自分を自覚できているかとも言えます。

例えば今、生きているというのは恩の御蔭様で生きているということです。そこから死を思えば、必ず人間は誰でも一度は死を迎えます。死ぬことも恩ですから、死ぬと覚悟を決めて一日一日が一期一会だと心構えでいればいただいている時間もこのカラダも瞬間も環境も御縁もすべてが御恩の賜物であることに気づきます。その天から与えていただいた御恩を同じように他の誰かに送っていこうとするのは、その恩までも欲で私物化しないと決めているからです。人が御恩を私物化し感謝を忘れれば言い訳や文句、不平や不満が出てきてより我欲ばかりが優先されてしまいます。そうではなく私物化しないと、いただいた御恩を同じように天と同じ心で恩送りさせていただきたいと願うなら、自分のすべての行動は感謝で「させていただく」気持ちで行動できるように思います。

この「させていただく」ということが恩送りであり、そういう姿勢を忘れない人は感謝の心を亡くしていないということのように思います。してやっているとさせていただいているの間には、心構えや覚悟、そして何より生き方が出て来ます。

何でもさせていただけることを感じるのは、「恩」といった偉大な自然の恩恵に包まれて生きているということでしょう。「恩送り」の生き方を、子ども達に譲っていけるよう精進していきたいと思います。

自然治癒の教え~医和道~

先日、あうん健康庵の小松庵主と奥様にご来社いただき社内にて理念研修を行いました。健康法ではなく養生法ということから御話がはじまり、種(いのち)の持つ潜在能力、そして自然治癒の本質とは何かについて分かりやすく噛み砕いて教えていただきました。

そのお話はどれも実践から紐解かれたものであり、どの御話も自らが実践する中で掴み得られた智慧があり、医の持つ真意について再度深く考え直す有難い機会になりました。

最初の話の養生法とは「どのように生きるか」ということだとし、人間は人生の価値観が変わるなら自ずから生き方も変わると仰います。よく病は気からといいますが、病は気と深くつながっているということから如何に「心の持ち方を変えるか」ということが肝要であるかということを教えていただきました。

そのためには、如何に「素直に磨きをかけるか」ということが大事であると言います。その素直に磨きをかけるのは、まずは自分の遣う言葉から観直すことが大切だと仰いました。私たち人間は本来、言霊文明の生き物であるとし、その人が使う言葉は言霊であり、その音は波動であるとも言います。どんな言葉を使っているか、そこから観直すことで生き方を見つめ変えていくことから実践することが大切であることを教えていただきました。

さらに続けて呼吸のことも教えていただき、呼吸はまず吐出すこと、そして長く吐出すことが大切だとし、吐かないことは儚いに通じているので呼吸法を身に付けることもまた気や健康に深くつながっていることを教えていただきました。

一つ一つの御話をじっくりと内省しふり返るほどにその含蓄のある教えに、自分の中の「治癒」ということの本来の意味や医を学ぶ姿勢を背中を通してお伝え頂いた気がして感謝の心に満ち溢れてきます。医の奥深さを感じさせていただける機会を得られることは、今の子ども第一義の志事を進めていく上でも本当に有難い機会になりました。

最後に、もっとも小松庵主の生き方から感じたのは謙虚さです。「病はわるいものではない、病から何が気づけるかがもっとも大切なのです」という言葉には、全てのものから学び、どんなことがあっても善いものとして教えていただいているのだからと素直に受け止められるその融通無碍な自然体な姿に、自然治癒とは何かということを深く感じ入りました。

自然から学び直しをする中で、自分のカラダもまたその自然の一部ですからカラダから学ぶことは自然から学ぶことです。有難い御縁をいただき、一家がお世話になる御医者様との出会いは子どもたちに養生法を伝えていける機会になります。

御蔭様に感謝し、子ども達に御恩送りができるようにしっかりと実践を積み重ねていきたいと思います。

本当にありがとうございました。島根での再会を心から愉しみにしております。

実践と徹底~智慧の会得~

素直な人は善いと思ったことはすぐにやりますが、同時に徹底してやるというのがあります。それは善いと思えるようになるまで徹底してやりきるということです。こういうコツを掴んでいる人は、あらゆる体験や智慧が自分のものになっていくものです。知識ではなく智慧になるのは、それは体験を徹底して深めることに由るものです。

今は知識として単にいいと思うものばかりを取り入れる時代だとも言えます。ちょっとテレビや本で善いと思ったものを簡単便利に取り入れますが、それでは表面の知識をなぞっただけで智慧になることはありません。

よく古来から「カラダに沁みこませる」や、「そのものと一体になるまで」という言葉がありますが、頭で考えてわかる程度では分かった気になったとしても「ものになる」わけではなくそんな知識では他の人に伝えることもできませんし、大切な気づきを同じ高さで理解できるわけでもありません。

まさに「徹底する」ということは何よりも大切なことであろうと思います。

炭一つであってもどんな実践をはじめるにせよ、他人から「そこまでするか」と思われていても「そこまでするから」気づくこともまたあるのです。徹底という意味は、辞書をひくと、中途半端ではないこと、底まで貫くまで遣りきることという意味です。他には、すみずみまで行き届いていること、そして最後まで遣りきることと記されます。

まさに「底まで貫く」と書いて徹底ですが、もっともやってはならないのはやったりやらなかったりすることや、途中で分かった気になって深めることをやめること、実践にならなくなってしまうことのように思います。

善いと思ったことをすぐにやり、善いと思ったことを徹底してやる、まさにそれが素直であり謙虚である姿勢であるように思います。御縁は常に一期一会、善いと思う御縁をいただいたのならそれは唯一無二の人生にとっての祖神からの「大切な教え」であり篩にかけられた有難い自然の智慧です。

凡事を徹底できるように、一つ一つの実践を丁寧に貫いていきたいと思います。

習慣のメンテナンス~セルフイメージ~

人は自分のセルフイメージを確かめることで、自分の生き方を確かめることが出来ます。どのような自分を持っているか、それを知ることは今までどう生きてきたかを知る鍵でもあります。

セルフイメージを確かめるのに、自分の「癖」の確認というものがあります。これは言い換えれば自分の今までで沁み付いた習慣のことですが、どのような習慣を持って生きているかがその人の生き方でありセルフイメージでもあります。新しい自分を創っていくのも自分ですから、過去の生き方と決別し新しい自分になっていくためには生き方の転換が必要です。そのためにも自分の癖を明確に見抜き、それを捨て、新しい習慣を身に付けていくことで自分の人生イメージも変わっていくように思います。

コーチングをしていく上で、何よりも私が大切にしているのは「口癖」です。その人がどのような口癖を持っているかは、その人がどのような考え方をしているか、そしてどのような生き方をしているのかを確認することができます。

例えば、ある人は愚痴ばかりをこぼし不平不満ばかりを言う人ならセルフイメージの中になにかあると自分と他と比較して文句ばかりを言う癖があることが分かります。ないものねだりを断捨離し、あるもの探しに切り替え、新しい口癖を繰り返し言い続けることでセルフイメージを変えていきます。「これだけしかない」という口癖から、「こんなにもある」と変えて、その後は「存在が有難い」というように不足から感謝に変わっていくとき、その人のセルフイメージが変わっていくことを確認することができます。

どんな口癖を持っているかがその人の生き方ですから自分の口癖を常にチェックし、口癖を気にして口癖から自分を変えていくことがセルフイメージを変えるためにもっとも効果があるように私は思います。テニスの松岡修造さんの日めくりカレンダーがとても売れたと聞きましたが、前向きでチャレンジし、現状打破していく彼のポジティブで諦めない生き方に刺激される人が多いから共感されているように思います。

朝練で子どもたちのコーチをしていても、できることは一緒に実践することと、大事な自分の生き方を自らの口癖で示すことです。子どもたちに必要なのは「憧れ」であり、憧れる人がいることです。これを「ロールモデル」とも言います。そのロールモデルになる人は、当然口癖もまた憧れるような人であるはずです。自分自身の口癖を常にチェックし、その生き方が周りを刺激し変えていくことを忘れずに子どもたちのロールモデルになっていくようなセルフイメージを日々にメンテナンスしていきたいと思います。

 

人間の発酵~発酵人~

先日から振動数について少し深めていますが、自然界には脈動があるように人間にも同じように振動数というものがあります。これは心の周波数という言い方もすれば、魂の波長や精神の波動ともいってもいいかもしれません。

生きていると周りを仕合せに明るく元気にしていく人と、周りを不幸せにして暗くしていく人がいます。この人はなぜそうなるのかといえば、周りに振る舞っている振動数に問題があるとも言えます。

善い人、明るい人、元気な人の傍にはそういう人たちが集まっていきますがそうではない人には逆に暗くジメジメしている人たちが集まってくるものです。これは生き方が関係しているのですが、どんな生き方をしているかでその人の振動数も変わっていくのです。

齋藤一人さんは、振動数をもっとも下げてしまうものは何か、それは他人を変えようとすることと、愚痴や文句を言うことだと言います。私はそれに言い訳をすることと、マジメに正しいことばかりを口にすること、あとはオープンでない態度、すぐにやろうとしない湿っている人が振動数を下げるのではないかと思います。

逆に振動数が上がるのは、発酵しているような人たちです。何があっても福に転じて、ピンチは常にチャンスにし、自分を褒めまくり、自分を変えることを愉しみ、周りに笑顔と思いやり、ポジティブな言葉がけ、これら徳を実践する人格者はみんな発酵人でもあります。

この発酵というのは深めていけば自明しますが、振動数が大変高いものです。与えていくのを愉しみ、自分が与えられていることに感謝しつつその御恩をお返ししたいと願って生きている人たちはみんな振動数が高いものです。

そうやって自分一人の生き方が変われば、周りの人たちもブクブクシュワシュワと変わっていきます。自分の居心地がいいところもまた振動数が関係しますが、如何に清浄で風通しがよく明るく心地よい場があるかは、自分の振動数を高めるのに効果があります。

結局、人間は生き方次第ですから文句を言う前に自分の生き方をさらっと変えてしまえばすぐに振動数の周波数が変わりその周波数で安心した環境が出来上がるのです。一番気を付けたいのは、自分のいつもの振動するの手入れをこまめに行うことです。自分が腐ってしまう人や、自分がネガティブになりやすい人は、自分自身の使う言葉を変えて意識を変えていくしかありません。

意識が変わるには言葉や行動が変われば次第に変わりますから、朝練をはじめて大声で元気よく挨拶をし、爽やかな朝日を浴びて毎朝の祈り、カラダを伸ばし元気がよくなるような格言を素読し、朝食を食べ、暮らしを愉しみ、仲間と働ける仕合せを噛み締めて生きる。

こういう人には自然に運もついてくるように思います。振動数の話を聴いてから余計に、自分自身が高まる面白さを味わっています。周りに左右されず、自らの前向きで深まる学問によって人間の発酵を味わっていきたいと思います。

炭のある暮らし~発酵の原点~

先日、社内に合計約500キロほどの備長炭や竹炭を設置することができました。太古の昔から炭は薬だとされそこから出てくる灰や炭、木酢液はあらゆるものを恢復する触媒になり、炎はゆらぎとして心胆を癒し、さらに煙には病をも治すという効果があると言われます。科学でも次第に微生物による空気や水の浄化にはじまり様々な炭の効果が証明されてきていますが、昔から炭は私たち人類をはじめ様々な生き物の生命力の恢復に大きな影響を与える治癒波動のようなものが出ているとも言われています。

しかし今では炭を使うことも少なくなり燃料としては電気が炭にとってかわり、炊飯や炊事に使うことがあるかないかくらいです。キャンプや野外でのBBQなどでは木炭が使われますが、本来の古来から重宝されてきた備長炭が使われなくなるのは残念なことです。

炭は火を使ってきた生き延びてきた人類にとって何よりも大事な住まいの中に暮らす道具でありパートナーであったと言えます。

例えば、陶器や金物もすべては高熱高温の窯の中でつくりあげられるものです。それらは炭を用い、陶芸家や鍛冶職人が伝統の技を用い伝承してきました。土や金を溶かし新たなものへと錬金するのは炭と火がなければ実現しません。

私たちが火を使うということは、道具を産み出すために必要なチカラでありそれを暮らしに活かすことで私たちは生活を続けることができたのです。竈での炊飯などの歴史の方が、今のガスコンロよりも長かったのは自明の理です。

備長炭は今でも10日以上の日数をかけて、炭職人が丹精と手間暇をかけてつくりあげられるものです。その備長炭を生活の中に取り込むというのは、私たちが古来から安らぎの生活の一部をカラダで感じることです。生活の中に古来から御縁が深い暮らしの仲間を集めていくことは、不自然な暮らしを見つめる自分自身の鏡になります。それは炭だけではなく稲や大豆、味噌や醤油、漬物などの発酵がすべての原点です。そしてこの「炭」こそ発酵道の途中にあるものであり、ブクブクシュワシュワと周りを活かし元気にしていく微生物の住まい、つまり「発酵する生き方」には欠かせない大切な智慧そのものでありその根本です。

都会に住んでいようが、どこにいようが住(炭)と暮らしは一体となり分かれませんから自分たちが何をパートナーとして生き延びてきたか、自分たちがどういう住まいで暮らしてきたか、そして何を自然としてきたか、身近な大切な存在から今一度学び直す必要があると思います。

子ども達に炭のある暮らしを遺していきたいと思います。

愉しい仕事

子どもに重きをおいて物事を突き詰めていくと、何が最も大切なことで何を譲ることが自分たちが紡いでいくことかは自明してくるものです。現在は経済成長だけが優先され、目先の損得ばかりで様々なことを決めていく時代とも言えます。

ニュースをみていても、中国との貿易をはじめ海外で発生している様々な法案や交渉もすべて経済を優先するためにその場しのぎの決定で後にツケを回すようにしているものです。

先日、オリンピックのエンブレム問題がありましたが子どもに遺したいいい仕事かという物差しなどはなく、それぞれの利権を優先するばかりで果たしてこれが仕事なのかと感じることばかりです。

本来の仕事は、後に追いかけてくる子どもたちのためにあるとも言えます。自分がどんな仕事を遺しているか、そこには先人としてどんな仕事をしてきたかがあります。実際に日本の建築物をはじめ、意匠を観ると、誇らしい先人たちの真心と誠実な心の籠った仕事を発見することができます。

決して粗末にせず、手を抜かずに、後のものたちのためにと必死に全身全霊を籠めたものであることに気づきます。それは信仰の場にいっても、そこにある仏像や刻まれた文字には祈りや心が籠っています。

今では仏像一つ機械で簡単に作れて、大量に生産して、それをたくさん販売しますがそんなものが子々孫々へと残っていくことはないように思います。

仕事がなぜ愉しいのか、それは後の人たちに見てもらえるからです。自分の遺してきた仕事が、のちのちまでお客様によって語り継がれることほど有難いことはありません。

あの時、真摯に助けてくださったとか、あの時、本当に大事な分かれ道だったとか、また何よりもその人の大切にする理想を諦めずに信じてくださったとか、見守られたことはいつの日までもずっと語り継がれていくものです。人は、丹精と丹念で手間暇かけた分、そして苦労を懸けた分だけが真心が籠る豊かで一期一会の愉しい仕事になります。

仕事は決して単なる作業や業務でもなく、その本質は「誇りと生き方」であるとも言えます。仕事に誇りを持てる人は、理念や大義を実践する働き方ができる人です。

子ども達に譲っていく未来を願い、本来あるべき姿を忘れずに愉しい仕事、愉しい会社にしていきたいと思います。