人は自分自身との付き合い方が、他の人との付き合い方になるものです。どれだけ自分の本心に対して誠実であるか、そして正直であるかは周りとの信頼関係を結んでいくためにもっとも大切なことであろうと思います。
しかしこの自分自身というものをいつまでも分かろうとせず、自分を誤魔化してばかりいると自分の本心というものを見失ってしまうように思います。なぜ本心というか、それは心とは別に本物の心と書いて本心だからです。心と思っているものは実は思い違いで、本来の心は素直な自分のことです。
如何に素直になるかは、その人の自分自身との誠実な向き合い、そして感謝に根差した正直な対話によって顕れます。言い換えるなら素直でなければ本心とは出会えず、素直でなければ自分自身でもないということです。
かつて神道禅仏一体を究めた慈雲尊者が「もとよりも直ぐなる道をとやかくと思ふこころにまどわされ行く」と言いました。意訳ですが本来は素直であるものを、自分の価値観であれこれと惑うがゆえに道から逸れてしまうという意味だと私は思います。
そしてその和歌の中で私が好きなものに「心」についてこう詠まれます。
「心とも知らぬこころをいつのまに我が心とやおもひ染めけむ」
つまりは心は自らの本心を知らないうちに勝手に自分の心を別のものにしてしまうということです。それだけ人は素直でなければ己自身を知ることはなく、結局は我執や自分の頑なで狭い価値観の中で勝手気ままに良し悪しを決めつけては物事の道理や本質を見失ってしまうということでしょう。
誰しも自分の本心を見つめるならばあまり我を張らない、つまり頑張らずいつまでも頑固に自分の価値観を周りに押し付けないことです。その上で、我を立てずその我を倒して順縁変化を愉しむことで次第に自らの本来の姿、本心がどうなっているのかに気づけるようにも思います。しかしそれでもなかなか気づけないのが自分自身の本心ですから、我を張らず本質的で実践を続けているような道の信頼できる人の話を素直にちゃんと聴くことができるようになることが最初の素直の入口なのかもしれません。
そして自分の今いただいている御縁を、「自分にもっとも相応しい」と感謝できるのはその御蔭様に気づけるからです。自分が”なにものか”を己事究明するとき、自分がどれだけ見守られて御蔭様の中で生かされ今があるか、自分が偉大な恩恵によってできているかが自明してくるはずです。それを自覚とも言いますが、自分のカラダをはじめ環境や出会い、御縁すべてが有難い”なにものか”によって与えられていることに気づきます。その真心と感謝に出会うからこそ報恩といって、その御恩に報いたいと自然に願う心が本心の棲家であろうと私は思います。
慈雲尊者は、十善という自戒を立てて実践をなさっていましたがそれぞれに人は本心が観えなくならないようにそれぞれに恩送りや恩返しの日々を歩んで素直に磨きをかけて精進していく必要があるように思います。何をするにもまずはじめに理念や初心を忘れないのはまずその我執に気づけるかどうか、本来の姿に戻ってこれるかどうかのキッカケに過ぎません。そのあとは、やはり十善のような実践を積み重ねていくことで我が立ちすぎないように謙虚に学び直しを続けていくことが最善のように思います。
最後にその慈雲尊者の「十善」を紹介して終わりたいと思います。
第一 慈悲、不殺生戒
第二 高行、不偸盗戒
第三 浄潔、不邪婬戒
第四 正直、不妄語戒
第五 尊尚、不綺語戒
第六 柔順、不悪口戒
第七 交友、不両舌戒
第八 知足、不貪欲戒
第九 忍辱、不瞋恚戒
第十 正智、不邪見戒
子ども達に譲っていく生き方に照らしつつ、自分自身の心を静かに見つめて精進していきたいと思います。