至誠無息

四書の中に「中庸」があります。そして中庸の中に「至誠」という言葉があります。この至誠とは、日本では真心と訳されます。孔子は中庸の徳は何よりも尊いといい、その後、孟子は「至誠にして動かざる者は未だ之あらざるなり」といいました。そして吉田松陰はその「至誠」を座右にし、何よりも真心の実践を学問を通して貫き通しました。

この中庸の中にある至誠とは何かということを少し自分なりに整理してみたいと思います。

中庸の中には「至誠無息」という言葉があります。これは真心は已むことがない、私の意訳だと自然界のように天地の恩恵は悠久で広大に永久に与えられているということをいうように思います。

私たちは自分で勝手に生きているように感じても、実際は無償の愛で様々な恩恵をいただいています。当たり前に生きていますが、光も水も空気も土も温度も地球も月も太陽も宇宙もその存在がなければ生きていることすらできません。人は厳しい環境に置かれる方が我欲を減らせても、満たされ過ぎる環境でも我欲が増えることを知りません。当たり前のことを当たり前にしてしまうと、感謝を忘れ自分の価値観に染まり本心を偽れば次第にいただいている真心を感じなくなりますから、「至誠無息」とは程遠くなっていきます。

本来の至誠や真心は、心が澄み渡るとき、もしくは自然と一体になるときに顕現してくるものです。それはまるでいのちそのものの姿で生きる自然界の生き物たちの心境です。西郷隆盛の座右に「敬天愛人」がありますが、字は異なりますが天が自分を無償に愛してくださるように自分も人を無償に愛するというのはまさに天地一体、真心の中にいることを忘れない生き方の座右とも言えます。

中庸にはこう記されています。

「故に至誠は息むなし。息まざれば則ち久しく、久しければ則ち徴あり、徴あれば則ち悠遠、悠遠なれば則ち博厚、博厚なれば則ち高明なり。博厚は物を載せる所以なり。高明は物を覆う所以なり。悠久は物を成す所以なり。博厚は地に配し、高明は天に配し、悠久は疆り無し。かくの如き者は見さずして章し、動かざるして変じ、為す無くして成る。」

これは自然の姿そのものです。

自然というものは、晴れては降っては吹いては時折休み、そしてまた活動します。それはどんな小さな生き物や、どんな多様ないのちであれ、必死で生き続けています。この必死で生き続けるというのは、いのちを使い切るといってもいいかもしれません。このいのちを使い切る中に真心があり、全身全霊で生き切る中にこそ至誠が息づいています。

人間はややもすると主人公であることを忘れ、自分の本心を偽り自分のいのちを使おうともせず他人に依存し、自分自身を高めて自分自身になっていくことを無意識に諦めていくように思います。社會の中に迎合しているうちに、様々な刷り込みに出会い、頭で分かったような生き方をしていると至誠が観えなくなってしまうものです。

一期一会に順縁を味わい盡す生き方をするならば、自ずから至誠無息の境地に達するのではないかと思います。そのためには、どれだけ真心を盡したかを常に三省し、真心ではない自分と向き合って自分を自分で育てていくしかありません。

子どもたちに見せる大人の背中として、この「至誠」というのは何よりも偉大な勇気を与えるものです。自然の中に入れば入るほどに、穏かな心でいのちを感じるとき、至誠は永遠であることを悟ります。

至誠を感じつつ、真心の日々を歩んでいきたいと思います。