慈雲尊者は、神仏儒の中から共通するものを見出しそれを真心を用い「和」に翻訳した人物とも言えます。その上で何が大切であるのかを説き、垣根を超えてその本質を伝承された方のように思います。
雲伝神道には、その和から産み出された考え方が入っているように思います。どのように物事を解釈するかはその人自身ですが、かんながらの道に置いては自然に沿ってどれだけ謙虚に素直に物事を直感し、深く入るかで物事の観え方もまた異なってくるように思います。
先達が遺してくださった真心に触れると、どこを目指していけばよいのかが分かり心が安住するものです。その慈雲尊者は、神道の本質についてはこう言います。
「神道は一箇の赤心、君臣の大義のみなり。此の一箇の赤心、家に在りて孝なり。夫婦に在りて和なり。隣里朋友に交りて欺くなし。」(「神儒偶談」)
意訳ですが、(かんながらの道は自然一体の真心のことであり、人の道を盡すことです。このひとつの偉大な真心は、家にあっては孝行することです。そして夫婦なら仲睦まじく和み、友人においては誠実であることです。)とあります。
本来、親祖がどのような生き方を志してきたか、その道は隠れてはいても私たちの心身に伝承されているものです。その初心を何にするかが、道の姿であり、それは全ての人間においては同根であるものです。
そういうものに辿りつき、何を最も優先するかにおいて真心であるというのは何よりも天地自然の道理にかなっているように思います。どうしても自分の心を自分の我や価値観、もしくは考えもせず社會の考え方に迎合し本質を見失う中で心は次第に狭くなり迷い惑いも増大してくるものです。
しかしそういうものに縛られ、執らわれないようにと十善をなせというのでしょう。慈雲尊者はいいます、「天地をもつてわが心とせば、いたるところ安楽あり」と。天地のそのものを自分の心とするならば、あらゆることは安楽になるということです。真心のままにいることがもっとも自分を真心に近づけるということなのでしょう。自我妄執を捨て去るには、君臣の大義といった人格を磨いていくしかありません。
また「一度の麁言、一度の傲慢、みな災害の兆しと知るべし。」といいます。意訳ですが一度の無礼な言葉、一度の傲慢はすべて身から出る錆の兆しだと気を付けよといます。さらに「朝夕にわがなすわざをおもいしれやすきをもとの心とはして」と言います。自分の心を問い直して常に内省し、謙虚に素直になっていくことで道から外れないように真心の傍にお仕えすることのように思います。
最後に、「十善これ菩薩の道場といえり。慈悲一切衆生身にひとしく福をあたへまことをつくす」といいます。自らが十善こそが実践道場、つまり人の道から外れないようなってしてはじめてすべてのことは福になっていくことができるといいます。
まだまだ行き来するばかりで、覚束ない足取りですが先人の教えの本質を学び直し子どもたちに伝承できるよう精進していきたいと思います。