南米のウルグアイに非常に立派な大統領がいます。この方は地位に見合わずとても慎まやかな暮らしを送っていることから「世界一貧しい大統領」として評されています。その生活は大統領公邸には住まず、首都モンテビデオ郊外の質素な農場に妻と住み、菊を栽培して暮らしています。その給与の90%も社会福祉基金の寄付にまわし、個人資産は友人からもらった約18万円ほどの車のみです。
この方の生き方にはとても共感することがあり、本来の環境問題とは政治問題であるという本質を見抜き自分たちの生き方や暮らし方、生活スタイルを変えようとしないのに環境問題に向き合えるはずがないと言い切っています。
有名なスピーチに、リオ会議での講演があります。実際はウルグアイのような小国の代表のスピーチということで後回しにされ、それに耳を傾ける人はほとんどいなかったそうですがこの時の様子を動画みてみると、如何に人類の問題に対して本質的に提起しているかが分かります。少し長文になりますが、そのまま紹介します。
「会場にお越しの政府や代表のみなさま、ありがとうございます。
ここに招待いただいたブラジルとディルマ・ルセフ大統領に感謝いたします。私の前に、ここに立って演説した快きプレゼンテーターのみなさまにも感謝いたします。国を代表する者同士、人類が必要であろう国同士の決議を議決しなければならない素直な志をここで表現しているのだと思います。
しかし、頭の中にある厳しい疑問を声に出させてください。午後からずっと話されていたことは持続可能な発展と世界の貧困をなくすことでした。私たちの本音は何なのでしょうか?現在の裕福な国々の発展と消費モデルを真似することでしょうか?
質問をさせてください、もしドイツ人が一世帯で持つ車と同じ数の車をインド人が持てばこの惑星はどうなるのでしょうか。
呼吸をするための酸素がいったいどれくらい残るのでしょうか。同じ質問を別の言い方ですると、西洋の富裕社会が持つ同じ傲慢な消費を世界の70億〜80億人の人ができるほどの資源や原材料がこの地球にあるのでしょうか?それは果たして可能ですか?それとも別の議論をしなければならないのでしょうか?
なぜ私たちはこのような社会を作ってしまったのですか?
マーケットエコノミーの子ども、資本主義の子どもたち、即ち今の私たちが間違いなくこの無限の消費と発展を求める社会を作って来たのです。マーケット経済がマーケット社会を産み出し、このグローバリゼーションが世界のあちこちまで資源と原材料を貪り探し求める社会にしたのではないでしょうか。
私たちがグローバリゼーションを果たしてコントロールしていますか?或はグローバリゼーションが私たちの方をコントロールしているのではないでしょうか?
このような残酷な競争で成り立つ消費主義社会で「みんなの世界を良くしていこう」というような共存共栄な議論は果たしてできるのでしょうか?どこまでが仲間でどこからがライバルなのですか?
このようなことを言うのはこのイベントの重要性を批判するためのものではありません。その逆です。我々の前に立つ巨大な危機問題は環境危機ではありません、政治的な危機問題なのです。
現代に至っては、人類が作ったこの大きな勢力をコントロールしきれていません。逆に、人類がこの消費社会にコントロールされているのです。私たちは発展するために生まれてきているわけではありません。幸福になるためにこの地球にやってきたのです。人生は短いし、すぐ目の前を過ぎてしまいます。命よりも高価なものはこの世には存在しません。
ハイパー消費が世界を壊しているのにも関わらず、高価な商品やライフスタイルのために自ら人生を放り出しているのです。消費が社会のモーターになっている世界では私たちは消費をひたすら早く、そして多くしなくてはなりません。消費が止まれば経済が麻痺し、経済が麻痺すれば不況のお化けがみんなの前に現れるのです。
このハイパー消費を続けるためには商品の寿命を縮め、できるだけ多く売らなければなりません。ということは、本来は10万時間持つ電球を作れるのに、1000時間しか持たない電球しか売ってはいけない社会にしているのです!そんな長く持つ電球はマーケットに良くないので作ってはいけないのです。人がもっと働くため、もっと売るために「使い捨ての社会」を続けなければならないのです。悪循環の中にいるのにお気づきでしょうか。これはまぎれも無く政治問題ですし、この問題を別の解決の道に私たち首脳は世界を導かなければなりません。
石器時代に戻れとは言っていません。マーケットをまたコントロールしなければならないと言っているのです。私の謙虚な考え方では、これは政治問題です。
昔の賢明な方々、エピクロス、セネカやアイマラ民族までこんなことを言っています
「本当の貧乏な人とは少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」と。
これはこの議論にとって文化的なキーポイントだと思います。
国の代表者としてリオ会議の決議や会合にそういう気持ちで参加しています。私のスピーチの中には耳が痛くなるような言葉がけっこうあると思いますが、みなさんには水源危機と環境危機が問題源でないことを分かってほしいのです。
根本的な問題は私たちが実行した社会モデルなのです。そして、改めて見直さなければならないのは私たちの暮らし方や生活スタイルだということ。
私は環境資源に恵まれている小さな国の代表です。私の国には300万人ほどの国民しかいません。でも、世界でもっとも美味しい1300万頭の牛が私の国にはあります。ヤギも800万から1000万頭ほどいます。私の国は食べ物の輸出国です。こんな小さい国なのに領土の90%が資源豊富なのです。
私の同志である労働者たちは、8時間労働を成立させるために戦いました。そして今では、6時間労働を獲得した人もいます。しかしながら、6時間労働になった人たちは別の仕事もしており、結局は以前よりも長時間働いています。そうなってしまうのはなぜか?それはバイク、車、などのリボ払いやローンを支払わないといけないのです。毎月2倍働きローンを払って行ったら、いつの間にか私のような老人になっているのです。私と同じく、幸福な人生が目の前を一瞬で過ぎてしまいます。
そして自分にこんな質問を投げかけます、『これが人類の運命なのか?』と。
私の言っていることはとてもシンプルなものですよ。発展は幸福を阻害するものであってはいけないのです。発展は人類に幸福をもたらすものでなくてはなりません。愛情や人間関係、子どもを育てること、友達を持つこと、そして必要最低限のものを持つこと。これらをもたらすべきなのです。
幸福が私たちのもっとも大切なものだからです。環境のために戦うのであれば、人類の幸福こそが環境の一番大切な要素であるということを覚えておかなくてはなりません。
ありがとうございました。」
ムヒカ大統領は世界一貧しいと呼ばれていますが、実際は貧しいの定義が異なります。それは本当に「貧しい人」は、いつまでも贅沢な暮らしを維持するためだけに、働いている人のことですといいます。本人は、家族や友人、そして人生の仕合せといった豊かさに包まれて幸福を味わっているように生きています。人類の未来を思う時、環境問題を考えるとき、資源を貪り続けてあくなき欲望を満たし続ける現在の姿に最後には資源が尽きて奪い合いがはじまることの欲望の悍ましさを感じます。持続可能とは経済のことではなく、大義のことでありそれは人間の道、つまり生き方のことなのでしょう。
最後に、ムヒカ大統領は政治家の立場からこう言います。
「お金があまりに好きな人たちには、政治の世界から出て行ってもらう必要があるのです。彼らは政治の世界では危険です。お金が大好きな人は、ビジネスや商売のために身を捧げ、富を増やそうとするものです。しかし政治とは、すべての人の幸福を求める闘いなのです」
すべての人の幸福を求める人たちが政治にいれば世界は変わっていくのかもしれません。しかしそれは一部の政治家ではなく、人はみんな自分自身の政治家ですから自分の政治を変えることは自分の生き方、働き方、暮らし方を変えることでもあります。
もういちど、子ども達に譲っていきたい社會を見つめ直していきたいと思います。