一般的に生き方と働き方というものを一致していくということは難しいことです。人は生き方と働き方を分けては、同じように様々なものを分けてしまいます。それは比較の概念と同じです。自分はそこまではできないと先に諦めてしまって、何もしなくなると生き方と働き方はさらに分かれてしまうものです。
そうなると自分の都合のよい方しかやらないというように「選ぶ」方を選択してしまいます。本来、自分の与えられている今に全身全霊を懸けて一筋に歩んでいけば天命に従い自ずから活路が見出していけるのでしょうが選んでいる時点で今を受け止められず未来や過去にばかりに執着し中途半端になってしまうことが多いのです。
だからこそ生き方と働き方を一致させる「実践」が必要なのですが、分かれてしまっている人は実践の意味もすぐにわかった気になるため実践もやろうとはしなくなります。実践した気になるということがもっとも恐ろしいことであり、実践して分かるものを実践しなくても分かった気になるというのは真理から遠ざかるもっとも大きな分岐点かもしれません。
森信三先生はこのように言います。
「人間は他との比較をやめてひたすら自己の職務に専念すれば、おのずからそこに一小天地が開けてくるものです。」
「自己に与えられた条件をギリギリまで生かすことが人生の生き方の最大最深の秘訣である。」
「自分の当然なすべき仕事であるならば、それに向かって全力を傾け切るということはある意味では価値のある仕事以上に意義がある。」
私の思う「来たものを選ばない」というのは、生き方と働き方を分けないという意味です。選ぶというのは、今与えられている順縁を愉しめず、天命に従わないという自己中心的な価値観で自他を分けてしまう生き方だからです。
そしてそうならないために「実践」はあります。すぐにわかれてしまうからこそ、実践によって分かれないようにするのです。「真理は現実の真っただ中にあり」という言葉通り、現場実践を遣り続けることで真理は存在できた状態になっているということです。
しかし実際は実践を怠ることで、真理が分かれてしまい自分の価値観の世界の中にどっぷりとつかってしまうと初心や本質に戻ることはなかなかできなくなります。そうならないために徹底した実践が必要になります。
「例外をつくったらだめですぞ。今日はまあ疲れているからとか、夕べはどうも睡眠不足だったとか考えたらもうだめなんだ。」
「できないというのは本当にする気がないからです。」
「人間は徹底しなければ駄目です。もし徹底することができなければ、普通の人間です。」
実践する覚悟があってはじめて人は自分自身になり、自分らしくいられるように思います。自分らしいということは、実践を徹底して続けている自分がいるということです。実践しないということは、初心を忘れた状態でただ生きながらえているに等しいと思います。
最後に、森信三先生の自銘の句で終わります。
「学者にあらず 宗教者にあらず
はたまた 教育者にもあらず
ただ宿縁に導かれて
国民教育者の友として
この世の「生」を終えむ 信三 」
不尽と名を改め、徹底した生き方を貫いた人の背中に如何に「実践」を遣り続け徹底することが大切であるのかを教えられます。本来の教えとは、対面で理解するのではなく同じ方向を観ているその背中から学ぶものです。いつまでもやらない人は対面から抜け出さず、同じ方向を向くこともありません。実践を常に優先し、まず自分自身のことをしっかりと立てて周りを立てられるよう精進していきたいと思います。