心がけを増やすこと

昨日は心がけのことを書きましたが、心がけは関係性でもあるように思います。よく絆という言い方や、結びつき、つながりなどという言い方もありますがこれは心がけで結んだ関係のことを言うように思います。

例えば、生き物を育てるという行為においてその生き物のことを心配し一緒に暮らしているうちにその生き物との間には絆ができます。御互いがお互いのことを気にして、心を通い合わせていきます。

それは直接的な水やりなどの行為だけではなく、そのものを大切にしようといった心がけによって絆が結ばれ強くなっていくのです。自分が「心から」やったことは思いやりが通じますから絆が結べますが自分が心でなく頭でやったことは絆が結べずに関係性が発展していくことがありません。

自らが頭で考えて行うのは、自分の心がけに関係するように思います。どんな心がけを大切にするかは、どれだけ相手のことを思いやるかということです。思いやりの素晴らしさは、そういう周りの絆や結びつき、つながりを広げていくことができその心がけの積み重ねにより心が周りから離れないことに由ります。

心はつながりを深めていくことでより洗練されていきますから、心を開いて心を通じ合わせていくことで次第に真心は澄まされていくように思います。

真心を磨くというのは、心がけを積み重ねるということです。言い換えれば、どんな対象のものであっても思いやりで接するようなものです。ものを粗末にしないというのも、感謝を忘れないというものも、恩に報いたいというものも、それは心がけです。

心がけがあれば有難い見守りを感じられるように思います。心がけを日々に実践する人は真心の行動が次第に増えていくように思います。周りの結びつき、つながり、絆を大切にすることが見守り見守られる関係を強くして安心できる環境を創造していくように思います。

子ども達のためにも、心がけを忘れない実践を増やしていきたいと思います。

子ども心を忘れない

星の王子様という小説絵本があります。昔、とても好きで何度も読んだことがありますが改めて読み直すと作者の親友への思いが伝わってきて仕合わせな気持ちになります。その親友は心の友であり、その人の子ども心のことです。そして子ども心とは、子どもだったころの心です。

星の王子様の中でも、「大人は子どもだったことを忘れている」という内容の箇所があります。大人になるということがどういうことか、そしてかつては大人はみんな子どもだったということが何を意味するか、そういうことを心に語り掛けてきます。

子どもというのは、大人のいうところの無意味な時間を沢山持つものです。こんなことをして何になるのといった大人の都合はほとんど子どもには無意味です。この意味があることと意味がないことの間に、子ども心があることに気づきます。

私自身も子ども心は何かと聞かれれば、好奇心とは言いますが好奇とは何かということです。不思議なことに満ちていることを感じるチカラともいい、英語ではセンスオブワンダーとも言いました。実際は、心は時間を超越したところにあり、心が”懸けた”ところに常に心はあります。

だからこそ遠回りしたり道草をしたり、遊びこんだり暇を持て余したり、そんな中にこそ子ども心は生きています。子ども心を見失うというのは、時間に追われ日々を忙しくして初心を忘れてしまうことを言います。

大人になっても子ども心を失わないでいるためには信念が必要です。信念をもって本質を守り、周りに流されずに自分自身主人公で居続けることで子ども心は忘れられることはありません。

子ども心を忘れることがもしも大人になることであれば、大人になることは心を捨て去ることだという定義になるかもしれません。しかし大人になることが子ども心を忘れないでいることであるのなら、その大人は自分らしくとても立派な生き方をする人物になったということになるのかもしれません。

信念に生きるというのは、心を忘れず心がけを実践するということです。

どんな時代でどんな環境があったとしても、子ども心を守りたいと願うのなら子ども心のままに生きて子どもたちが元気づくようにしてあげたいと思います。子どもが子どもらしくいられる環境というのは、子ども心をみんなが忘れていない環境のことです。

それだけの心の余裕、それだけの心の豊かさを優先してみんなが天命のままに心安らかに暮らしていける福世かな世界になったということでもあります。

「大切なことは目には見えないし心で読まなければわからない、そして子どもは初心のままの姿、心はあるがままの無心、大切なことは日々の心がけです」

子どものように心のままで生きていた時代があったことをいつまでも忘れないように本命本業としての”見守る”ことを現場に拡げていきたいと思います。

 

原始の魂

私たちは自然を観ると、唯美しいと感じる心があります。澄んだ月夜の灯りに包まれたり、沈みゆく太陽の夕陽を眺めたりするとき、心が美しいものを感じます。この美しいということを感じる心というのは原始の魂が宿る様に思います。

原始の魂とは、太古の昔から私たちがその時その瞬間に大切な何かを感じ取っていたということです。言葉にはできなくても、その自然の美しさを覚えるとき、私たちはその美しさを魂で感じ取っているということではないかと思います。

あるがままのものを感じるチカラというのは、人間だれにしろ備わっています。それはこの自然の美しさを感じるときに味わっているからです。本来、自然はそのままで一体でありあるがままで全体であるものです。そこには比較することはありません。そのものをそのままに感じるのは唯一無二の存在であることを実感するからです。

魂はその唯一無二にあるとき、感じるチカラを増すように私は思います。

知識や頭脳ですぐに何かと比べたり、良し悪し正否を分別したりしますが、自然そのものを観るときのようにあるがままの存在を感じて魂が宿るものとつながりながら生きていきたいものです。

原始の魂はいつも自然と同化し同居していました。

時代が変わっても、自然を観て美しいと感じる心を子どもたちに伝承していきたいと思います。

暮らしの道具~囲炉裏の本質~

先日、縄文時代の竪穴式住居の遺跡を見学する機会がありました。先祖たちがどのように暮らしてきたのか、その住まいには何を大切に守って何千年も生き抜いてきたかの薫りがあちこちに遺っていました。

特にもっとも印象深かったものは、「囲炉裏」です。住居の真ん中に、炭の跡が遺り、そこで日々に火を囲み、炉を見つめては一家団欒をした様子が伝わってきます。火のぬくもりの中で、美味しい料理と会話があればそれだけで日々の暮らしは安寧であり仕合わせで豊かだったのでしょう。夜の暗闇の中に在る火にどれだけ人々は癒され続けてきたのかと感じます。

囲炉裏はその後、現代になって失われましたが客人をおもてなしする様式として発展しその究極の姿として茶室となったとききます。茶室を設けるのに、囲炉裏があるというのは本来の昔の様式を今に遺している日本の心や文化が今でも継承されているということでもあります。

動物たちは火を使いません。私たち人間は火を扱うようになり、火と共に暮らしてきたことで私たちはいのちをつないできました。炎は私たちのカラダを暖めただけではなく、その心も暖めつづけてきたから永いときを幸せに暮らせてきたとも言えます

その火を真ん中に置いて皆で囲む姿こそ、私たち人間のコミュニケーションの原型ではないかと思います。一緒に食べる、一緒に暖まる、一緒に暮らす、これらは火を囲むことで実現します。囲炉裏のもつ深淵さは、「炭を纏い火神と解け合い、心暖まる」ということの中に真理があります。

囲炉裏で一杯のお茶をいただき、ほっとする時間があるからこそ人々の暮らしは心休まるのです。和を尊ぶ先祖たちが暮らした道具の中でもっとも大切にしてきたものが囲炉裏であったのでしょう。

囲炉裏のある暮らしを通して、先祖たちの初心を伝承していきたいと思います。

自然への畏敬

自然農の畑で高菜の間引き作業をしていると、根元にテントウムシたちが越冬のために隠れています。よく木の皮に隠れている様子をみたことがありますが、高菜の根本にも何匹も隠れている様子に同じように越冬しやすい環境があるのだろうと驚きました。

何でも手作業をしていると、今まで見えなかったものが観えてくるものです。

今は何でも簡単便利に機械やお金で解決する方法で楽をして一気に効率よく進めることが良しとされる価値観があります。手間暇かかることを避け、出来る限り面倒なことは避けたいとエスカレーター式に進んでいくことを望んでいる人も増えました。

今では田んぼや畑に入っても土を触らないで稲を育てられる時代になっているとも言えます。しかし実際は、自分の手で土を触り、自分のカラダで感じなければいのちの様子は感じることはありません。肥料も農薬も使わないというのは、不便で手間暇かかりますがその豊かさというのは自然に触れることができるということです。

先ほどのテントウムシも、その他の虫たちもみんな其処に暮らしています。冬に血液を凍らせないでじっと越冬する様子に、今まで厳しい自然の中で生き延びてきたのだと感じると尊敬の念が湧いてきます。

かつて地球は何度も寒冷期があり、太陽が隠れて厳しい時代があったといいます。その中でどうすれば生き延びれるかを考えて、またその時代が来てもいい様にと敢えて厳しい自然に身を置き続けています。自然はいつまた変化するかわかりませんから、「危機に備える」チカラを捨てることはありません。

私たち人間は、あまりにも豊かであまりにも贅沢な暮らしが続くと危機感というものが喪失していきます。そして変化が来た時、気が付くと自然に順応できずに滅んでいきます。

よく自然を観察しては、どのように生き延びてきたかを学ぶのは変化を学び直すことでもあります。変化できなくなるとき、人類は危機が訪れますから自然をお手本に学び直しを続けていきたいものです。

子ども達に大事なことを伝承するためにも、自然に正対して畏敬をもって語り継いでいきたいと思います。

久しく永い時間のモノサシ~棲み分けの智慧~

畑に出て来年の高菜のお世話をしていると、周りには夏草から秋草に入れ替わってきています。一年の同じ場所を分け合って他の草草は生きています。これを棲み分けとも言いますが、生き物たちの絶妙な棲み分けには感動します。これは場所に限らず、明るい時間と暗い時間、夏と冬、地下と地上、冷と熱、様々なところに移動しては棲み分けます。

地球は一つしかありませんから、一つの場所を同じ種がずっと占有していてはそこで争いが起こります。これは自然界のものが、共生を優先していることを物語ります。共生とは譲り合いのことで、進んで争わないということです。常に自然界では和を優先して生き物たちは久しく生きながらえてきました。

競争していないはずはないといいますが、実際は長い目でみて競争はせず共生しているのです。目先のことだけをみれば、競争して勝ち残ったものだけが生き残るとも捉えられますがそんな修羅のみの世界で生き物たちは暮らしているわけではありません。末永く久しく生き残るために、敢えて厳しい環境に身をおいて生き延びようとしたけで進んで争いたいと思って生きている生き物はありません。

その証拠に、生き物たちは多くをとり過ぎることはありません。その時、必要な分だけを分けてもらうのです。自然が循環して、自分の行いが長い年月でどのようになるのかを自覚するからこその棲み分けです。

つまり棲み分けとは、常に久しく永い時間のモノサシがあるからこそできることです。人間は、久しく永い時間のモノサシを捨ててきているのかもしれません。自分の代のことや自分の心配ばかりをし、目先の競争や保身に一喜一憂してはそのために資源も何もかも浪費するという考え方は果たして久しく永い時間のモノサシにはどう映るでしょうか。

生き残るというのは、決して厳しいだけではなく自然の豊かな恩恵の中で幸せに暮らす時間を与えていただいたという捉え方もできるはずです。いのちがこの世に存在するというのは、それだけ自然の愛や真心を受け続けることができるということです、まさにここが自然の楽園であり極楽浄土です。

その豊かさや仕合わせを感じられないということは不幸なことかもしれません。本来のモノサシを取り戻し、子ども達に悠久の時を譲っていきたいと感じるばかりです。日々に本業を通して伝承していきたいと思います。

仲間の絆、心の絆

昨日は、クルーの皆で駅伝に参加する機会がありました。沖縄で参加してから2回目ですが、回を重ねるごとにその意味や深さを感じます。今回は、前回とは走る順番やテーマやチーム分けも異なり、新たな発見もたくさんありました。怪我もなく、みんな元気に走りきることができ有難い気持ちです。

第一走者になってみて、走ってみると最初の大変さというものを感じます。前回はアンカーのプレッシャーもありましたが、今回は最初のプレッシャーというものがあります。

走っていると何度も何度も苦しさが訪れ、楽になりたい衝動にかられるものです。しかし自分が流れをつくろうとしたり、必死に集団についていこうとしますが、それではなかなか踏ん張れないものです。

しかしもっとも絆を感じたのは、やはり仲間のことを思う時です。スピードを落として怠けようとすれば誰がみているわけでもなく自分との闘いの中でその判断はいとも簡単にできるものです。もしも自分一人で走っているのなら、自分自身との向き合いと闘いだけで済んでしまいます。ただ、その時、いつも脳裏によぎりちらつくのは仲間のことばかりです。

仲間もきっと必死にやるだろう、きっと仲間は遣りきってくれるだろう、きっと仲間はこんな時でも負けないだろうと、強い信頼と絆を思うのです。日頃の信頼を思い出し、自分自身を叱咤激励して走るとき、そこに絆を感じます。

結局、人は誰しも自分との闘いを独り行い、己に克つことで前に進んでいくしかありませんがその時々で仲間の存在が絆になってチカラになっているのです。もしも一人なら怠けてしまうようなことも、仲間の絆があれば自分に打ち克つ原動力になるのです。

駅伝の素晴らしさは、どんな時も仲間の存在を忘れないということかもしれません。一緒に走るというのは、それぞれのコースでは一人で走りますが走行中はいつも仲間のことが心から離れません。

私たちは「一緒」をテーマに働きますが、この駅伝の御蔭でいつもそうありたいと感じることがより一層強くなりました。一人だと苦しいだけでも、仲間がいるから愉しくなる。人はつながりや絆があるからこそ、苦しさの中にチカラを得ることができるのかもしれません。

人生はどんな人にも苦難の連続です。そしてみんな自分自身と正対し、それぞれに自分自身に打ち克って人生を歩んでいきます。仲間が一緒にいてくれること、仲間がいると自分自身が感じ続けていることに道を歩んでいく醍醐味を感じます。

ただ走るのではなく、仲間と一緒に走るということ。

これからも「心の絆」を結んで、愉しく豊かに一緒に歩んでいきたいと思います。

ほのぼの

先日、「ほのぼの」(仄仄)という言霊に気づかせていただく機会がありました。私たちがおもてなしで心を籠めて取り組んでいる実践を「ほのぼのする」と表現してくださった方がいたからです。

この「ほのぼの」というのは、心を顕す言葉であり「心暖まる」「心和らぐ」、他には「心が癒される」という意味になります。人には心がありますから、心がいつも豊かで仕合わせであるというのはこのような心の通じ合いがあって感じるものです。

今の時代は、日々にやることに追われ急ぎ焦り心を籠めるということもなくなってきました。心を亡くしていてまるで人形やマシーンのようになってしまえばそのうち心の在り処がなくなり心は疲れ切ってしまうかもしれません。

もしも自分の心を亡くしたままに歩んでしまったら本心がどこにあるのかもわからなくなってしまっているかもしれません。現代の社会問題の中に、根強く残る自分らしさの消失はこの真心を見失うことからはじまっているように思います。自他を尊重することや、自分自身が調和することもすべてはこの心の在り方に懸っています。

人は、心の在り方次第では観えている世界は異なっていきます。同じこと同じ現象、同じ環境が合ってもある人には天国、ある人には地獄であることがあります。いくら世間で幸せだと評されようとその人の心次第では不幸であり、いくら世間でかわいそうだと同情されてもその人の心次第では幸せなのです。

人生はその人の心次第ですから、人生をより善くするのは心がけです。心がけが歪んでいたらその心もまた歪みます。心がけが澄んでいるのならその人の心もまた素直になっていきます。

どう生きるのかは自分にしか左右できず、それは全てにおいて心がけが決めます。

その方から「心の田に日々に種を蒔くこと」を教えていただきました。これは心がけのことです。どんな心がけで日々に生きるかはその人次第、悪因悪果、善因善果、それはもう随分前に自分が蒔いた種が芽を出して今に現れただけのことです。誰のせいでもありません、すべては自分のせいですから言い訳はできません。

如何に日々に福行の種子を蒔くかが、福世かな世界を信じて見守るための要諦です。活かされているいのちを輝かすためにも、子ども達の未来が明るく仕合わせになるためにも、自分自身の心がけがすべてを決めてしまいます。

心を亡くしている人が多いからこそ、私たちは「ほのぼのと働いて」いきたいと思います。教えていただいたことを実践し、また御恩返しに生きていきたいと思います。ありがとうございます

天与の持ち味

人間にはそれぞれにその人のもつ持ち味というものがあります。その持ち味とは、良いとか悪いとかではなくその味があるということです。それぞれの味をどのように活かして美味しいものにしていくかはそのものの活かし方にあるようにも思います。

本来、素材というものはそれぞれに味があります。素材の味をひきだすという言い方もしますが、素材はそのままの方が美味しいと感じるものです。料理にも考え方があり、料理人の都合で仕立てていく料理と、素材の都合にあわせて仕立てていく料理があります。

私たちがいつも会社で食べている自然食の弁当は素材に合わせてメニューを決めて、素材に合わせて料理をしています。料理人は素材をどのように活かせばいいかを考えて、その素材が活きるように合わせていきます。ようは活かすも活かさないも料理人の意識に由るということです。

在るものを活かすという考え方は、老子の「足るを知る」という自然観が顕れます。自然界はとても豊かです、それは多様性に満ちているからです。それぞれに個性があり、それぞれに特性を発揮していのちを謳歌しているのが自然界の豊かさです。老子は、足るを知るものは富むといい、あるものを活かそうとするものは豊かであると言います。

このあるものを活かすという考え方は、ないものねだりをしないということです。ないものねだりは比較することからはじまります、世の中は常に評価がありその評価に基づき裁いていますから常に比較されてしまうものです。しかし、ないものねだりをしても自分は自分、その人はその人ですから素直にその魅力や持ち味を認める方が仕合わせだと私は思います。

そしてもしもその人を比較しない本来の持ち味に気づいたなら、その魅力をどう磨いていくか、そして伸ばしていくか、皆の御役に立てていけばいいかを一緒に考えていけばいいと思うのです。

生物非生物に関わらず、それぞれには天与の持ち味があります。自然が与えてくださったそのものの豊かさを皆で味わっていくことは、生きていく仕合わせ、そして存在する歓び、心の充足、魂の邂逅のようにも感じます。

みんな違ってみんないいとは、みんな善いのは異なるからだ、つまりは誰かの御役に立てるということです。そのお役に立てる部分を活かしていくことが、豊かに仕合せに生きられる本筋です。

子ども達があるがままにいのち輝く存在になるように、比較競争の刷り込みをみつめ、持ち味から楽しく変わっていけるように実践を続けていきたいと思います。

学問の大禁忌~道を見失う~

知識をつける世間でいう勉強ではなく、道を実践する学問は学び方にルールがあるように思います。道に入っている人は決してしないことでも、道がよくわからない人は簡単にやってしまうものがあります。そういうものが生き方に出て来ますから、なぜかいつも王道の中で自然体に歩む人と、いつも道から逸れては煩悶として不自然になっている人に分かれるように思います。

ではその差は何かということです。

吉田松陰の遺訓の中に「学問の大禁忌は作輟なり」があります。意訳ですが、「道を実践するという本物の学問において、絶対にやってはならぬことはやったりやらなかったりすることである。」と言います。

道というのは、歩んでなんぼのものです。歩まなければ道ではなく、歩むから道だと言えます。もしも足を前に出していないのなら歩んでいないということは誰でもわかります。それが日々の実践です。しかし実際は、悩んでばかりや周りに文句ばかりったり、言い訳ばかりして一向に自分の脚で歩もうとしない。自分で歩かないのに進まないと愚痴をいっては実践しないでは道は自分から遠ざかっていくように思います。

道とは、自分の人生のことです。自分に与えられた人生ですから、それは自分自身でしか歩むことが出来ません。そしてその道を歩むにおいてどこに向かいどこに辿りつこうとするのかはその道の歩み方といった志に顕れてきます。

どんな人生を歩みたいかを初心に、理念を定め、定めた理念に正直に素直に実践していくことで人は道を謳歌していくことができます。そのために、もっとも道においての禁忌は「したりしなかったりすること」であると私も思います。

したりしなかったりするのは、そこに我欲があります。自我に真我が負けて己に嘘をついてしまうからしなくてもいいことになっていきます。しない日々が続くのは、自分で決めた初心を偽るのですから自分にいつも言い訳を言って帳尻を合わせることになります。すると、自分の中にある真心や情熱、そういうものに水をかけてしまうことになるのです。

常に自分で決めた道は、自分の脚で歩き切るといった自らの実践があって人は学問の楽しみを深く味わうことができるように思います。

最後に、吉田松陰の言葉で締めくくります。

「至大至剛は気の形状模様にして、直を以て養ひて害することなきは、即ち其の志を持して其の気を暴ふ義にして、浩然の気を養ふの道なり。其の志を持すと云ふは、我が聖賢を学ばんとするの志を持ち詰めて片時も緩がせなくすることなり。学問の大禁忌は作輟なり。或は作し或は輟むることありては遂に成就することなし。故に片時も此の志を緩がせなくするを、其の志を持すと云ふ。」

どんな時も理念からブレずに実践することこそ初心を忘れず志を守り続けたということです。これこそが「真の学問」ということです。道に入るということは学問に出会い学問をするということです。道は消えるのではなく見失うだけですから、本来の道に帰りまた道を一緒に歩んでいく仲間に合流していけばいいようにも思います。道はそれぞれ自分の脚で歩みますが、同志や仲間がいれば一緒に歩んでいくことに仕合せを感じ感謝の心と同時に深い味わい楽しみがあります。

子ども達に日々の実践こそ学問ということを自らの生き方で示せるよう精進していきたいと思います。