人は自分中心の視野と自然中心の視野では、全体の見え方が異なるものです。自分の視野でみて自分にとってメリットがあっても、それは全体から見たらデメリットであることがほとんどです。
例えば、自然農などは手作業で一つ一つ地味に取り組んでいく農法ですが現在の慣行農法と比べればとても時間も労力もかかっているように見えます。しかしよくみると、慣行農法は機械や道具で一気に簡単便利にスピーディに農作業は終わりますがその機械や道具、ガソリンやその他の運搬、エネルギーを考えると全体ではとても多大な労力と時間がかかっています。
自分にとっては機械や道具で簡単に済むことは、果たして全体にとっては善いとは限りません。先ほどの例では、その簡単便利にスピーディにできるもののために膨大なお金を使い、大変なゴミ屑を生み出し、環境にダメージを与えてしまうような状況を与えてしまいます。自然は浄化しますが、浄化の速度を超えてしまえば農地や環境にだけではなく人体にまで害が発生し病気になることで余計に時間と労力を使います。
自分にだけメリットがあると行動することができるのは、それをささえる周りがあるからだと言えます。どれだけ自分が行動するときに、「これは周りにどんな影響を与えるだろうか」と、全体をトータルに考えて行動することで視野は広がるものです。
これをメンターは「全体最適」を目指すと言います。
この全体最適とは、自分にとっては都合がわるいことであったにせよそれが全体を幸せにするのなら全体を優先できるということです。しかし実際は、全体が幸せになった後で自分が幸せになれば丸ごと幸せでみんなにも善くて自分も善い状況になったとも言えます。
すぐに人間は、「自分さえよければ」と考えますがこれが全体最適を破壊し部分最適にしてしまう原因になってしまいます。
運が善い人というのは、自然の理に叶っていますから常に全体最適に合わせて自分を活かしていきます。つまりは全体によって善い実践や行動ができているということです。自分が愉しく仕合わせにみんなが明るくなるように、また先延ばしなどせず、すぐに反省し行動する。教訓を活かし、周りのお手本になり、素直に謙虚に学び直しを続けつつ他人から沢山のことを頼まれる人になる。こういう人はいつも全体最適で生きているのが分かります。この逆を考えれば、部分最適がどうなるかは自明の理です。
そして運の善さというものも、自然の理ですから全体最適である人であればあるほど運は高まりその運に由って物事は自然の見守りと御力添えにより仕上がっていきます。これが運も実力のうちということです。
この自然農の田畑も同じく、全体最適で観ることができなければこの農法の真の善さを自覚することはありません。農薬を使わないから健康だとか、いのちと向き合え心が穏やかになるからだとか、もちろん理由はいくつもあります。
しかし最も大事なのは、自分の生き方や実践がどれだけ全体に善い影響を与えるかということを自覚することが何よりなのです。生き方が変わるというのは、それだけで全体最適に影響を与えます。なぜなら徳の実践も同じく、自然の理に適うことを行い続ければ自然の循環や浄化のサイクルにスパンとはまります。
実際に人間か自然かではないですが、人間都合はやはり部分最適であり自然都合にすることは全体最適です。無理に自分の思いどおりにならないからと、怒り焦りジタバタするよりも自然の流れに従い応じて任せつつ、その中で最善を盡して精進を続ける方が全体最適になっているものです。
そして常に全体を観ることができるというのは「余裕がある」ということです。
余裕とは、自分の生き方が決めます。
そして余裕を持つために理念や初心があるのであり、自分が目的と手段を自分さえよければという我欲で好き勝手に入れ替えたりしないように理念や初心を意識する実践が自分の我を抑え全体最適を優先する己自運転になっていきます。
常に子ども達のために何がもっとも全体最適かを見極めつつ、自然の理に適った実践を増やしていきたいと思います。