祈りの実践

先日、あうん健康庵にて有難い真心の籠った最幸のおもてなしをいただき私たちにも一生の思い出ができました。御縁は本当に有難く、「祈りの力」という小松先生の著書のタイトルに惹かれて知人からご紹介をいただいてから自然治癒ということの本質について深めることができています。

そもそも「いのり」というものをどのように定義するか、そこに祈りのチカラを自覚するかどうかの差異があるように思います。日々に「祈りの力」を実践するものこそが、その祈りによって世の中が働いていることを知る様に私は思います。

かつて「代表的日本人」を著し、世界に日本人の徳を弘めた内村鑑三が「聖書之研究」の中で「祈りの特権」という語録を遺しています。

『人は窮すれば人に頼む。人の援助を得て窮地を脱せんとする。そして人の援助の絶えし時に行詰りたりと云う。彼は、おのれに祈祷の特権あるを忘れるからである。何がなくとも祈る心はある。これさえあれば、われに万物ありである。』

私の意訳ですが、「人が困窮すれば誰かに助けを求めそれが尽きた時、行詰るといいます。しかしこの時、自分には祈りがあるという実践、その初心を忘れているからそうなるのです。どんなものが不足しても祈る実践はできないことはない、つまりこれさえあるのなら自分には万物が足りているのです。」

人は祈ることを忘れることで困窮していきます。言い換えれば祈らないから困窮するのです。この祈りというのはピンチこそ祈るのではなく、やはり日々に初心を祈ることのようにおもいます。この祈りの特権というのは、人が素直になり謙虚になる唯一の方法です。困窮して行詰るのは自己中心的で自利にばかりに心を奪われてしまうからとも言えます。もしも利他に生き、三方よしの全体のためにと人事を盡して天命を待つ生き方をしているのなら困窮ではなく天から与えていただいた試練だと感じるものです。

それは「試されごとは頼まれごと」という言葉もありますが、それだけ天が頼ってくださっていると感じる感じ方もあるのです。試練は「初志」を鍛錬し、「初心」をも研磨してくれますからその試練によって人は養分を得て養生し成長するとも言えます。

話を戻せば、祈りの力というものは日々に初心を忘れない実践を行ういます。それは理想を信じる中で魂を純粋にし、魂のままに遣りきっていくことに似ています。

世界には同じようにこの世に産まれてきて何かを直感し、生き方を変えて一隅を照らしともに世の中を明るく美しくしようと実践する方々が沢山います。そういう人たちと一緒に祈り続けるのなら、いつの日か必ず人類は目覚め安心の世の中を築いていくはずです時、大事なことは真心と思いやりを忘れずに一緒にいつまでも祈りの実践を行うことのように思いますそうすることでたとえ時代り変わっても伝承され継承され、その祈りは永遠になり無限の刻を歩み続けていきます。

「祈り」は人間に与えられた「至大至高の叡智」であるということです。

最後に内村鑑三はこう締めくくります。

『祈祷の哲理を解せずといえども、祈祷の実力を知る。われは弱き人である。されども祈祷の人である。ゆえに強くせられ、また人を強くすることができる。大なるかな、祈祷の特権。』

未来がどうなるかは、今の自分の祈りの実践によります。倦まず飽かず怠らず、精進を続けて子どもたちの未来のために祈りを積み重ねて研ぎ澄まし、祈りそのものに近づいていきたいと思います。

心が優先

今の時代は知識が豊富になり、何でも解決方法をインターネットをはじめ本を読んですぐに活用することができます。しかし同時に、優先順位が求められている時代に入ったとも言えます。

例えば料理をする際、食べたいものを考えてレシピを検索します。そしてレシピをみたすぐにその通りに料理をすればある程度はおいしいものはすぐにできてしまいます。つまり頭で考えた通りに頭で近づけていくことができるとも言えます。その際、注意する必要があるのは先に心を優先してから頭を使っているかということです。

ここでは頭と心という言い方をしますが、頭でいいなと思ったことをやるのではなく、まず先に真心や思いやりを優先しその後にその具体的な方法として頭を使うという意味です。今の時代は知識が豊富になり便利になることで心は使わず頭だけでやっていることが増えたとも言えます。

便利か非効率かではなく、心を優先しているかどうかということが大事なことなのです。

心を入れずに頭で生きていくことは確かに便利です。面倒であればあるほど心のチカラは生きてきますが、簡単便利であればあるほど頭は動いていきます。電気一つスイッチを入れればすぐに暖房がついて暖かくなるのと、薪や炭で火をおこし暖めていくのでは時間も労力もまったく異なります。しかし前者は心は使わなくてもすぐにできてしまいますが、後者はそこまでしてやりたいかというくらい時間も労力もかかり不便なものです。

頭で考えていてもコツは掴めませんが、心を優先して頭を使うことでコツは身に着いていきます。そうして心を遣って行動することを優先し、それを知識で深めていくことができるようになってくると自然との向き合いが上手になってきます。

先ほどの暖房一つでも、スイッチ一つで暖めるのか、手間暇かけても火をおこし暖めるのでは実践していることが異なります。自然を相手に日々に取り組むことは心を高めて五感を磨くことと同じです。

これからは機械がより高度に発展し、ロボットや人工知能が人間の代わりに働きはじめる時代ですからなおさら感性を磨き、人間にしかない直感を研ぎ澄まし、人間力を高めていく必要があります。それが心を優先するということです。

心を優先する訓練というものは、自然を相手に暮らしていくことです。発酵を学んだり、御米や野菜を自然に育て、生き物たちを慈しみながら一緒に生きていくことや、生活の中で必要な道具をかつての親祖からの伝承を学び直し受け継いでいくことも心を優先する実践になります。

もちろん情報化社会ですから頭脳を磨くことも大切なので、新しいものの価値もまた身に着ける必要がありますがそれは心が優先しての話です。心が優先しない技術や知識というものは本当に危険極まりないものです。それは自然を相手にする危険とは異なり、まるで欲の化け物を相手にするような危険が伴います。

人類はどう自分に打ち克つかというのは歴史の教訓の中で何度も気づかされます。栄枯盛衰、どんな文明も必ず滅びました。それは心が優先されなくなって滅んでいくのが分かります。真心や思いやり、仁とも言いますが時代が変わって技術がいくら進んでも大切な優先順位は間違わないぞというその時代その時代の人たちの信念が未来を決めているのでしょう。

子ども達のためにも、何を優先して生きていけばいいか、今の大人たちが変われば子どもが変わり、子どもが変われば未来もまた変わるのですから常に自分自身に矢印を向けて実践を積み重ねていきたいと思います。

 

白紙に透過する今

昨日は、社内の場をアレンジして古民家風にしてちゃぶ台にゴザ、間接照明を愉しみ望年会を行いました。館山から貝人こと福田さんも参加してくださり、来年早々にある貝磨きにつながる望年貝にもなりました。

有難いことに毎年、写真を振り返り毎月映像化しているトキメキムービーで一年を省みるとこの一年がただ過ぎ去ったものではなく如何に得難い邂逅の日々であったことを再認識できます。仲間と切磋琢磨し初心を忘れずに実績を積み重ねた日々、同じ目的に向かって御互いが支え合い励まし合い助け合い見守り合った日々、その一つ一つが大切な時間と解け合って今に至ります。

御縁を感じるのは、誰と一緒にどのように時を刻んだかといった生き様を振り返るときに強く感じます。そしてそのつながり、その絆の御蔭様にどれだけ自分が救われているかを思う時、はっきりと顕れてきます。

あたりまえではない存在とは一つまた一つと集積する時間の中にこそ住んでいます。それはまるで一生の砂時計のように、上にある砂が狭まった道を通り抜け下に落ちて溜まっていくように、循環しめぐり往く時の中で砂が転じて記憶と解け合い集積するかのようです。残りの人生をどのように使い、どのような砂を積み重ねていくかはその砂が入れ替わる瞬間の此処今この刻にこそあります。砂に思いと願いと祈りを篭めて透過することが一生を生き切るということかもしれません。

時代が変わっても、変わらないのは人間の一生です。

この時代に何を大切に生きるか、この時代にどのような御縁に結ばれて生きるか、御縁を活かすのは自分次第です。誰かに刷り込まれた常識を捨ててみて、思い込みに縛られる自分と別れてみて、頭で考えるのを一旦已めてみて、白紙で物事を観ることが素直になることのように思います。

子どもだったころ、最初はみんな白紙で何でも自由でした。白紙に透過するのが自分の生き様であり生き方です。魂が信じたことをカタチにしていく世界というのは、執らわれないで純粋にどこまでいのちを透徹できるかにかかっているように私はおもいます。

どんな生き方をしてみるとどんな風になるのか、人生実験は飽くなき挑戦の日々です。子ども達に繋がっていくことを忘れず、一念一念を希望に換えて日々を遣りきっていきたいと思います。

道心と暮らし

「道心」という言葉があります。これは徳を高めて道を志す道徳心とも言えます。天台宗の開祖の最澄の有名な言葉に「国宝とは何者ぞ。宝とは道心なり。道心ある人を名づけて国宝となす。故に古人曰く、経寸十枚、これ国宝にあらず。一隅を照らす。即ち此れ国宝なり」があります。

これはクニの宝とは人々の中にある道徳心であり、道徳心がある人こそが本来国宝なのだと言い切ります。そしてその国宝こそがクニのかたすみのあちこちを照らす人々になっていくということです。

そもそも道徳とはいつからあるものなのか、それは今もはっきりしていません。しかし古来の人類が埋葬してあるものをみて、そこに御互いを思いやる心があったことを察し、宗教に発展しているとも言えます。

日本では神話の中で、大国主が数々の思いやりを遺しています。そして天照大御神も、真心を顕している「八尺瓊勾玉」を三種の神器の一つにしました。先祖たちが大切にしてきたものの中に道徳が入っていることに気づきます。

人間がもっとも人間として大切にしているものを忘れないこと、それを初心にして高め合おう磨き合おうと精進していく中にこそ道徳は息づいているように思います。

最澄はさらに「道心の中に衣食(えじき)あり、衣食の中に道心なし」と言いました。

つまりは初心を忘れずに実践する人には、自ずから衣食住は伴ってくる。ここでの「衣食(えじき」とは「暮らし」のことです。初心を忘れない人は安心して暮らしていけるが、己に負けて初心を忘れ自分のことばかりを考えて自分勝手に生活している人には人を思いやる真心を見失い衣食住が次第に存在できなくなるということです。

「暮らし(衣食)」というものは、利他に生き、周りのために、全体のためにと自分を盡す人には自ずから備わっているもののように思います。自分優先で自分のことばかりを気にして自分に終始する人は暮らしが成り立たないのは、暮らしは「みんなの仕合わせのために生きる」中にしか存在しないからのように思います。人間は周りの御蔭様を何よりも尊重して生きる生き物であり、決して一人では暮らせないということです。

周りへの感謝を忘れ御蔭様をも思い出さないで、自分の身の心配ばかりしているようでは道心から離れているように思います。道心とは、周りの人たちの御役立ちできる生き方を貫いていくことであり、その生き方が世の中のかたすみを常に明るく支えているという意味でしょう。

「暮らし」を見直していくとき、どうしてもはじまりを意識します。そのはじまりは、道徳心に由ります。道徳心を忘れないためにも初心を実践し、日々に研鑽を積み、真心を盡していきたいと思います。

 

徳の御姿

先日、私のメンターの先生と10年目のテーマを確認する機会がありました。もう毎年毎年、この時期にテーマについてご挨拶をしテーマを共有し一年を振り返り10年にもなりました。

自信というものは決して結果に対してつくものではなく、自分の決心したことを実践してやり遂げる中で自ずからが信が積み上がっていくものです。私にとってはこれだけの期間に色々なことが起きながらも自分の信じた初心を貫くことができた御蔭様に心から感謝ともに自分に対する信頼にもなりました。

徳の高い先生と、道を一緒に同行できることは何よりも人生の仕合せです。

人は徳が磨かれ人格が高まれば高まるほどに道ができます。なぜならその徳に人が慕って集まってくるからです。私の尊敬するそのメンターの先生も、この10年以上御傍でご一緒していく中で多くの人たちが集まってきました。今でも全国各地から、いや世界からその人望を慕って人は集まってきます。不思議なことですが、自分が外に追い求めていかなくても自らが実践に由り思いやりや真心、その仁の姿を示すなら道中の同志たちが集まってくるように思うのです。

「桃李(とうり)もの言わざれども下(した)自(おのずか)ら蹊(みち)を成す」

これは中国の司馬遷、「史記」にある故事です。桃やすももは何も言わないが、花や実を慕って人が多く集まるので、その下には自然に道ができる。つまり徳望のある人のもとへは人が自然に集まることのたとえで使われます。

自らを研鑽し、自らの徳を高めることで道は自然に姿かたちを顕現させます。

有難いことに、道中の中で物言わぬ道が何よりも学びを深めてくれます。人に出会うことは徳に出会う事であり、徳を学ぶことは道を歩むことです。

その人物の価値というものは、どのような生き方をしたか、そしてどのような生き様であったかということに尽きるように思います。そしてそれはその人の徳が顕すものです。如何に日々を生きるかが、生き様ですから一日一生と日々に初心を生き続けることが本来の人生を生き切ったということでしょう。

子ども達や次世代のために、今を焦らず弛まず己に打ち克ち、「桃李不言下自成蹊」と実践していきたいと思います。

ヒューマンスケール~手の届く範囲~

先日、ヒューマンスケールについての話を伺う機会がありました。これは辞書によれば「物の持ちやすさ、道具の使いやすさ、住宅の住みやすさなど、その物自体の大きさや人と空間との関係を、人間の身体や体の一部分の大きさを尺度にして考えること。人間の感覚や動きに適合した、適切な空間の規模や物の大きさのこと。身体尺度。」(goo辞書より)とあります。

昔、鞍馬寺に伺ったときに貫主様から「手の届く範囲」という御話をお聴きしたことがありました。人は手間暇や手仕事、手元や身近な手の届く範囲で生きていくことが大切という話です。

つい人は青い鳥症候群のように、遠いところや未来の彼方に宝があるように錯覚しますが実は足元にこそ本来の宝があるという考え方を持つと見方が転じていくものです。

手間暇をかける幸せや、身近な暮らしを味わう倖せ、そして大切な人たちと一緒に生きる歓びや、分相応に謙虚に日々の仕事を丁寧に進めていくことの豊かさ、これらはすべて「手の届く範囲」で行われるものです。

人間は原子力をはじめ、遺伝子組み換え、サイボーグ等々、地球を破壊するような様々な科学技術を便利に我が物顔で使っていますがとても使いこなしているようではありません。目にはみえないところまで手を伸ばし、手が届かない範囲まで手を出そうとしています。もう自分では制御不能の技術の中で、心は着いてこなくなっています。

人は本来、循環の一部ですから「分相応」という生き方を選んできました。よく身に余る光栄だとか、恐れ多いとか、もったいないというように自分に相応しいものがどれだけのものなのかを自覚していました。

しかし今は、身の丈を超えて無理をし、虚飾をして派手な生活を繰り返しているともいえます。大量生産大量消費の中で、経済のみを優先していくと分不相応な暮らしは広がるばかりです。日常よりも非日常を求めては、お金を使うために体を壊してお金のために大事なものを捨てていく始末です。

二宮尊徳は「分度」といって、分相応を定めてその中で生きることを説きました。自然体の生き方というのは、自分の身の丈にあった生活を続けていくことのように思います。人間は欲ばかりを肥大化させていけば、その欲によってヒューマンスケールを簡単に超えていきます。そしてもはや人間の生活ではない暮らしを送り、本来の人間らしい自然な姿が分からなくなっていくものです。

日々に何を食べていたか、どんなリズムで生きていたか、何を大切にしてきたか、その全ての「はじまり」すら思い出せなくなるところにこのヒューマンスケールで生きない問題があるように思います。

手の届く範囲いうのは、欲張らないということです。言い換えれば、自然の御蔭様に気づき感謝で生きていくということかもしれません。それはすべて手が届く範囲で実感できるものだからです。

手間暇、手仕事、手の込んだものはどれも「美しい仕事」になります。

この手の届く範囲にこそ私は「美しさ」を感じます。つまり美しい仕事はすべて手仕事なのです。そして美しい生き方というのは、分相応に生きている人が持てるものなのかもしれません。そしてそれが自然体の本質であり、人間らしさの本質かもしれません。

子ども達のためにも、時代が変わっても日常の初心、その「手の届く範囲」や足元の宝を忘れないように精進していきたいと思います。

感性を磨く3

ここ数日で感性を磨くということを書いていますが、その感性は何を砥石に見立てて磨くかによって磨かれ方も異なります。先日、天然砥石をいただき来年から研ぎをはじめますが感性に通じる磨きがあります。

二宮尊徳に「天地の経文」があります。

「夫れ我教は書籍を尊まず、故に天地を以て経文とす。予が歌に『音もなくかもなく常に天地(あめつち)は書かざる経をくりかえしつつ』とよめり、此のごとく日々、繰返し繰返してしめさるる、天地の経文に誠の道は明らかなり。掛かる尊き天地の経文を外にして、書籍の上に道を求むる学者輩の論説は取らざるなり。能く目を開きて、天地の経文を拝見し、之を誠にするの道を尋ぬべきなり」

二宮尊徳は書物や人から学ばず、常に自然の声を聴いて学んでいたことが分かります。日々に繰り返される天地自然の御姿をお手本に誠の道とは何かを自問自答することで学び直しを続けたとあります。

本来、感性とは自らに具わっているものです。なぜならそれは自分も自然の一部であり、自分も宇宙物と一体であるからです。人間だけを分別し、他のものと分けてしまうことの中に本当の問題が潜んでいるように思います。

人間というものは天地自然の一部にして、周りの全てのものと同化しているものという視点に立脚するのなら自ずから学びの対象は自分自身になるのです。本来、離れてはならないものと離れてさも分かった気になって自分の都合のよいものを師にして弟子にしてもそれは道理から離れていくものです。

創始の人々は、すべて自然から学び、自然の技術を道具にしてそれをもって能力を磨き感性を研ぎ澄ませてきたともいえます。創始の人々と同じものを見つめる心は、自分自身の感性を創始の人々に近づけていくことと同じです。

私たちの感性は知識によって磨かれるのではなく、自然によって磨かれるのです。その自然が知識で見ている自然であればそれは自然ではありません。空を見て空とし、雲をみて雲と理解し、太陽を見て太陽と理解し、月を見て月と理解する。こんなことでは本当の自然を理解することは絶対にありません。

そのものをそのままに感じる心が感性のことです。言い換えるなら、空は空と見ない、雲は雲と見ない、太陽は太陽と見ず、月も月と見ない。つまりはそのままの姿をそのままに受信し感応する心に耳を傾けて声を聴くのが感性です。

感受性を高める教育などと言われ、何を思ったか教科書を使い自然まで知識で教え込もうとしますがこんなものが果たして感性を磨くとは私には思えません。

感性を磨くには、感じる力を高めていくことです。それは耳を傾けることです、そして声を聴くことです。そういうことを素直にできるとき、人はその感性が磨かれ自然一体の素直で謙虚な姿に近づけるように思います。私が尊敬する空海も二宮尊徳も、また吉田松陰も、その他様々な先祖たちが実践してきた自然に学ぶ姿に今も心が融け合っていきます。

子ども達のためにも、何をお手本にして学び直していけばいいか、その刷り込みを取り払う環境を用意していきたいと思います。自然から学び直すことで、直感を養い、感性を高め、道理を学び、思いやりや真心を実践できる人に近づいていきたいと思います。

感性を磨く2

昨日、感性ことを書きましたが「直感」や「勘」はコツを掴んでいくという言い方もしましたが自然に触れ自然の智慧を会得することでその感性もまた磨かれていくように思います。

身近な自然物を使い、道具を一つ一つ拵えていくことは自分自身の中にある本能や感性を呼び覚まし研ぎ澄ますことになっていくものです。

先日、島根にて注連縄づくりの伝承に参加する機会がありました。稲藁を束ね、ねじり、巻き、そして結ぶことを取り組む中でチカラの入れ方を学びます。一つ一つの道具の中にはとてもシンプルですが何をすれば自然のチカラを活用できるのかをカラダを通して体験で直感して体得していけます。

これは五感を使って自然のチカラを活用し道具を創る中で身に着く智慧とも呼んでもいいのかもしれません。

かつて日本民藝館を設立した「柳宗悦」に「見て知りそ、知りてな見そ」という言葉があります。これは知ることを先にして見ることをあとにしてはならないという意味です。よく「考えるよりも感じろ」という言葉もあります。知識ばかりを先に掴み、そのあと智慧を掴もうとするのは無理なことです。

本来は智慧があってそれを知識で深彫っていくことが学問の楽しさであり、やってみて実践し行動してみて内省し反省し改善することが「コツ」を会得していく使命の活かし方のように思います。

今の時代は、知識ばかりが豊富で知っていることや分かった気になってはそれが安心だと勘違いしている人がいます。不安の解消と絶対安心とは異なるものであり、同じく信じる世界は知る世界とは異なるものです。人はなかなかそれまで身につけてきた知識を手放そうとはしないものですから、感じるチカラはますます減退していきます。

その柳宗悦の日本民藝館に「直感」の大切さについて語られている文章があるので紹介します。

「自然の恵みや伝統の力といった、他力をも味方につけた工人(職人)の虚心な手仕事によって生まれた民藝品がなぜ美しいのかを、柳は「民藝美論」と呼ばれる独自の理論によって説いた。他力の力をも受け取ることによって、はじめて生まれ出るものであると説くこの独自の美論は、仏教の他力本願の思想になぞらえて、「美の他力道」という言い方もされる。なお、柳が生涯をかけて構築したこの仏教思想に基づく新しい美学は、柳自身の美的体験に深く根ざすものであった。柳は美の本性に触れるには、何よりも「直観」の力が不可欠であると説いた。「直観」とは、人間が本来持っている美を感受する本能的な力であり、知識や先入観によるのではなく、囚われのない自由な心と眼によって純に対象物を観ることである。この「直観」の重視は、初期の思索より一貫している柳の最も特徴的な方法論で、生涯にわたる思索と行動の原理となった。」(日本民藝館HPより)

この刷り込みのない無我の境地のすがたは、透徹された素直さによって顕れるように思います。素直さというのは人間の能力でもあります。どれだけ素直に自分が物事を直感できるかは、日々の暮らしの中で感性を磨いていく脚下の精進に由ります。太古の昔から無駄の一切ない完全体の美しいものを直感する感性や、素晴らしいものを産み出す感性は、自然の美意識や自然の活用技術によって会得していくように思います。

感性を磨いていくことはもっとも大切な人間力を高める方法かもしれません。

かつての親祖たちが産み出し創ってきた道具の中に、日本人の中にある感性の原点、自然美を私は感じます。引き続き子ども達に日本の中に遺る自然美、そして日本人の心に宿る美意識を伝承してその魂を譲っていきたいと思います。

感性を磨く

人間には「感性」というものがあります。

この感性とは生きていく上でとても重要であり、その感性が時代の先を読み、周りの人々を倖せに導いたりします。つまりはリーダーの資質の中で何よりも大切な能力であるように思います。そしてその資質には、素直さや自然環境を通して学ぶという謙虚さがあるように思います。

最澄の言葉に「おのずから住めば持戒のこの山は、まことなるかな依身より依所」という言葉があります。自分をどのような環境に運ぶのか、リーダーは常にその感性を磨くための精進を欠かすことはありません。私が風土を探訪して山に学ぶのもまたその直感を研ぎ澄ませていきたいからです。

人は本来、環境から学ぶ生き物です。その環境からカラダで学び、「勘」や「直感」というものを会得していきます。それは知識ではなく智慧であり、経験や経年を積んだ中で磨かれた感性のことです。よく「直感」で物事を決めていく人は、頭が良いわけではなくその人は磨かれている感性を持っているということです。そして感性とは鈍るものですし、感性とは磨くものですから感性に対する精進を怠るなら当然「直感」もまた冴えなくなってきます。

そしてこの「直感」や「勘」というものは具体的な「失敗の質量に比例する」ように思います。つまり、体験をし失敗をし何度も何度も繰り返し改善する、その勇ましい挑戦と、七転び八起きの逞しい生き方によって次第に磨きがかかり研ぎ澄まされていくのです。感性を使ってるというのは言い換えるのならば「五感をフル動員」して自分も持つ全てを出し切り使っているということです。その集積で得た境地のことを「コツを掴んだ」とも言います。

つまり心を澄ましたり、魂を磨いたり、真心を盡したりという行為は全て感性が関わります。その感性は機械やロボットでは持ちえないチカラであり、人間が人間たる由縁でもあります。そういう感性を磨いていくことは、自然の一部である自分自身の本能を使っていくことでもあります。

今の時代はすぐに知識ばかりを優先し、直感や勘というものを少し見下げているような風潮があるように思います。しかし本来は、自然の中で生きている私たちに感性が磨かれていなければ実際に悠久の永い年月に生き残ることはできなかったように思います。

敢えて厳しい環境の中に身を投じたり、敢えて苦しい環境の中で手間暇を惜しまないのは、その環境の中で感性が研ぎ澄まされていくことを自覚するからです。失敗を恐れずに何度も何度も場数を踏むのが大切なのはこの「直感」や「勘」のコツを掴むために必要なのです。

子ども達が何度も何度も繰り返しやってみては泣き、やってみては笑うのは、これらの感性を磨いている証拠です。子どもから学び、子どものような学び方を思い出し学び直すのは全てその悠久の年月で得て来た智慧に回帰することのように私は思います。

子ども達と同じように一生感性を磨いていきたいと思います。

自物一体~勿体ない~

昨日、石見銀山にある他郷阿部家にお世話になる御縁がありました。暖かい真心のおもてなしに懐かしい原風景を感じました。石見銀山は世界遺産にも認定されていますが、かつての風土の中にある暮らしがいつまでも遺るというのは先祖たちの生き方が遺っていることでありそこに日本人の心に触れると安心するのは原始の魂に触れるからかもしれません。

神話の昔から、何を大切にして生きてきたか、そして親祖たちが子孫へ譲ろうとして来たものが何か、「根」に触れるということは初心を伝承することです。初心は伝える側と承る側がいて存在しますから、どのような初心を持っているかが伝承の本質です。

昨日はここで不思議な体験をしました。

巷には、物が溢れ物が氾濫する時代だとも言われます。しかし本来は、物は有難い存在であり物は魂が宿る存在です。その物に魂が宿ればその物は語り始めます、それを物語と言います。

物語を語るものは全て伝承者であり、それを聴く私たちもまた伝承者です。生物非生物に関わらず、語りを聴けるというのはその真心に日本古来からある大切なものを譲られていることに気づきます。言い換えれば御縁のつながりというのかもしれませんし、さらに言えば縁結びの心、道理だと「循環の理」と呼んでもいいのかもしれません。

私たちは物を大切にすると思う時、物より高いところで語られることがありますが実際は物と同じところで物を大切にしているかどうか、それは無我の境地というか無から有が生まれそこから空間が出来上がるように無に没頭することで物の美の真価を味わうように思います。

つまり物を大事にというのは、自物一体の境地のように思います。勿体ないという意味も、そのものに入りそのものとなるという「ものづくり」の真心です。

物事、物語、物造、そのものが何を語るのかを素直に聴ける感性こそが空=間によって磨かれていくのかもしれません。「美しい」と感じる心は、空間の美、勿体ない中にこそ存在するように思います。

まだ触れたばかりでこれからの実践になりますが、ここでの暮らしの生き方を見習い、実践を学び直していきたいと思います。

また最後に、石見銀山の風土から山と暮らし、山を見守り、山と暮らしてきた歴史を直感的に感じ、”お山と語り合う”ことの大切さをはっきりと気付かせていただきました。

有難うございました。