聴く姿勢

人は受け容れることで前に進むものです。そして受け容れるとは、話を聴くことからはじまります。先日から「聴く」ということをテーマに話すことが多いのですが、本来の聴くことは受け容れることであり、聴くことは前進するということです。その逆が停滞することであり、否定するということです。

人は何でも否定から入ると受け容れる余地を残しません。受け容れるというのは、聴き容れるということであり、自分の価値観の中に新しい考え方を取り容れるということです。変化というのは自分が変わることですが、変わるためには他人の話を聴き容れる素直さが必要です。齢をとってくればくるほど、頑固に自分を守れば守るほどすぐに否定する生き方の癖がついてしまいます。否定から入ってしまえば、できないことまでできるふりをし成長する機会を逃してしまうかもしれません。

稲盛和夫さんの言葉に『実際にはできないことを、できるようなふりをしてはいけません。まずできないことを認めて、そこからスタートするのです。』があります。

これもできないことを認めることが他人の話を聴き容れるということであり、それが前進をするということを表しています。相手の話を聴いて、「確かにそれも一理ある」と思えるかどうか、最初から否定して「違うそうじゃない」と頑なになるかはその人の「聴く姿勢」に由るものです。

聴けないのは、自分の価値観が優先され他の価値観は排除しようといった素直ではない物の視方があるからです。自分が正しいと思い込む前に、もしかしたら自分が間違っているのではないかといった矢印を自分へと向ける努力があってはじめて人は他の人の話を聴くことができるように思います。自己肯定感というのも否定を已めることで身についていくものです。話を聴くから人は自信を持つことができ、話を聴かないからいつも自信がなく不安になるのです。

地球上で生きられる私たちの人生は自分だけのものではなく、他の人たちにも同様に人生があり、多種多様な価値観があるように多種多様な正解もまた存在するものです。自分だけが正しいといっては他を間違っていると思い込むのはあまりにも視野が狭いように思います。

如何に多くの矛盾を受け容れて、丸ごと一つの円の中で物事を受け容れ福にするか。それを私たちは聴福人と呼びますが矛盾があってもいい、違いがあってもいい、衆智を集めて皆でチカラを合わせていこうというのがみんなが心を一つにして仲良くしていく人格を磨いていくことだと思います。違うからこそ認め合え、異なるからこそ助け合えるのです。社會はそうやって協力し協働することで仕合わせになり、それが厳しい自然の中で生き残ってきた人類の智慧なのです。

話すことで摩擦をうみますが、摩擦は磨くことでもあり、どう自分の心で素直に聴けるかで自らの魂をも磨いていけるように思います。聴くことがどれだけ大切かは、聴き容れたあとの自分の変化によって気づくと思います。そして聴くことができるとき、そこには思いやりの残り香が薫ります。

子ども達のためにもどんな声も聴けるような素直な心を高めていきたいと思います。

 

人間尊重の回訓~大人ぶらない~

先日、久しぶりに高見のっぽさんの動画と記事をニュースで拝見しました。小さい頃から、テレビ番組の中でとても好きだったものです。いつものっぽさんの工作する様子や、相方のごんたくんとカラダを使って表現する様子に食い入るように魅入っていたものです。

最近のそのニュースで、のっぽさんが実は工作が苦手だったと知り驚きました。そういえば、工作が上手だったというよりは苦い顔をしながら一生懸命に作る様子に見入っていたのだろうとあの頃の自分の心を思い出しました。全てを受け容れて挑戦する人の姿というのは子ども心に勇気づけられたものです。

その動画と記事の中でまた心に遺る話がありました。そこには「大人ぶっていませんか」というタイトルです。そのままご紹介します。

『子どものことを「小さい人」と呼ぶ。自分が一番賢くて鋭くてきれいなときはいつかと考えると、5歳。大人が「子どもだからわからないだろう」と侮った言動は、ちゃんと見透かしていた。「そのつもりで小さい人と接するから、真剣です。あんな大人にはなりたくもない」』

とても共感する文章で、子どもだと上から目線というのは私も大嫌いです。それにこれは子どもだけではなく、大人ぶるや、偉ぶる、他にも格好つけてはこのぶるがつく「ブルブル」する人は、傲慢で相手を侮っている言動ではないかと思います。自分の中にある子ども心や相手の子ども心は大人になっても見透かすものです。子どもの前で恥ずかしいことをしないように○○ぶろうとする時は特に注意したいものです。

そしてこうも言います。

『「子ども目線」という言葉も大嫌いだ。「訳知り顔で『子どもの目線に下がって』なんて、あほらしい」。「小さいときを忘れ、大人ぶって上から言っていませんか。そんな時は命令でなく相談してごらんなさい。小さい人は、とんでもなく賢いんですよ」』

大人ぶるということが如何に自分を見失っていくことかが分かります。周りより優位に立ち、物知り顔で我が物顔でいることは子ども心を見失ったことです。相手を尊重するということは、自分自身を尊重することです。そして自分自身でいるというのは、自分の持ち味で生きることを優先しているということです。

社會の中で自他を活かすために自分の持ち味を活かすことは、大人ぶらないことです。周りに対して尊敬の念で生きること、上や下をつくらないこと、尊重して一緒に学び合うこと、語り合う事です。こういう人として当たり前のことを実践していくことが、子どもにとっての大人のモデルになるのであろうと感じます。

あの頃ののっぽさんは自分の心の中に今も一緒に住んでいます。

大人になって改めて見て、自分も大人ぶった大人にはなるまいと自戒の念が強くなりました。子ども第一義の実践を、積み重ねていきたいと思います。ありがとうございました。

特別という勘違い

人はできる人を目指す人と、御役に立てる人を目指すのではまったくその姿勢が異なるものです。前者は自分が如何に特別な人間であるかに固執しますが、後者はできない中でもお役に立てることに精進しようとします。

自分の感情を満たすための努力というものは、自利が入ります。しかし周りのためにと自分を役立てていこうとする人は利他に入ります。そもそもなんでできる人になろうとしたかの動機が間違えば、その結果もまた相応なことが起きてしまいます。大事なことは何に憧れているかということが重要なのかもしれません。

私はかつては能力が高くて有名な人が特別な人だと信じていたことがあります。しかしある時から、特別な人だからすごいのではなくみんな人は誰でも普通なのだと気付き、誰でも生き方を貫いている人がすごいと思えるようになりました。

自分の信じた生き方を貫いている人は、たとえ肩書や立場がなくても尊敬できます。それは自分がやってみて気づけるからです。自分の信念に生きる人というのは、自分自身とのたたかいに打ち克っている人であり、自分の心と正対し初心を優先しているから尊敬するのです。

よく人を上下に分ける人がいますが、これは自分を特別視するから分けるのです。別に自分がどう思われようともいい、自分が人間の一人であって特別ではないのだと自覚すれば自分が何かに役立てるように精進しようと前向きになれるように思います。自分をあまりにも愛して特別視すると、考え方が常にネガティブになります。自分を守ろうとすると自分の心配ばかりに終始して役に立てる仕合わせを忘れてしまうものです。

大事なことは「自分が特別な存在なのではなく、御蔭様と御縁が特別なのだ」と感謝することではないかと思います。自分が生きていられるのは自然の御蔭様です。この御蔭様は奇跡の御縁で結ばれています。

人間は自分たちを特別視することで神様にでもなったようにすぐに傲慢になります。全知全能などというできる人の刷り込みは、今の世の中の縮図を表します。そういう価値観に縛られるのは感謝の実践が足りないからかもしれません。自分が如何に何ものかに活かされて今があるか、自分が如何に御蔭様に見守られているかを思えば、自然に自分が不完全でも誰かの役立てる仕合わせに感謝できるものです。

謙虚さに気づくのは素直の入口です。他人の話を聴くには、全知全能のできる人を目指し特別な存在であろうとするよりも、自分を含め誰もが特別な存在だと気づくことです。

そしてもしも自分が特別だと信じることでモチベーションを維持するのなら、自分は志があるのだから俗世に流されてはいけない、普通ではいけないと自戒し精進することのように思います。

子どもたちがわたしたちの跡を続いていきますから、自分がこの世に生を受けた御縁までも私物化しないように自分という存在を勘違いしないように精進していきたいと思います。

みんなOK!

人は競争や比較の刷り込みを持つことで、完璧主義に幻想を抱いていくものです。これは集団社会の中で、サボらない人をつくるために「真面目で責任感がある人」をつくりこんでいくように思います。人間は、やらされていると楽をしますから楽をしない人をつくるように育てるのが今の学校のやり方でもあります。

しかしこの真面目で責任感があるという人には落とし穴があります。自分でやろうと主体的な組織に入った時には、どうしていいかわからなくなるのです。

真面目で責任感があるというのは、自分を責めて最後まで完璧に仕事をするという意味で使われますしかし本来の真面目という意味は、目的や理念に対して真剣であることです。そして責任感とはすぐに実行する行動力のことです。理念を優先するからこそ協力を惜しまないのが本来ですが、競争して比較して協力しないでというのは小さな自分に囚われて周りを自分のために利用していることになるかもしれません。真面目で責任感というものを勘違いしてしまうと人を許すことが出来なくなります。

先日、訪問した沖縄教育出版社で「I am OK! You are OK! We are OK!」の社憲を見ました。これは自分もOK、相手もOK、みんなOKという意味ですが、みんな許し合い協力しますという大切なメッセージが入っているように感じました。

つまりは持ち味を活かすというのは、自他を許し、皆を活かすことを優先しようということです。その理由はなぜかといえば、目的や理念を優先するために他なりません。

本来の自分を取り戻すには、小さな価値観に縛られる自分を自ら手放してもっと大きなものに自分を近づけていく必要があります。その基本を腹に据えるものが「理念」だと私は思います。

いつまで誰かに目標を与えられて使役されるままの自分でいるのか、そうではなく自分自身の意志と積極的な信念で目的のために生きていく本当の自分に出会うことが必要です。人間が自立するというのは、本当の自分自身になるということだからです。そして自分自身で歩んでいくことが道であり、志を立てるというのはまず理念を自らの基本に据え置くということでしょう。そうやって道を志すとき、人は実践という歩みを安心の境地で進んでいくことができるように思います。

まず最初のそれまでの競争比較刷り込みを抜け出すには、刷り込みの自分を超える必要があります。そしてまず自分自身と向き合う前に、何をモノサシにして向き合うかが大事です。そのモノサシは理念です。先ほどの「みんなOK!」は刷り込みのない自分のままに自他の成長を味わって自分の持ち味をみんなで活かそうとする素直な言葉です。まず取り組む前に、「誰も責めない=みんなOK」と決めることが許しのはじまりであり、その実践こそが心をオープンにして自他を開放することだと思います。

自分を責める人は他人を責め、そして全てを責めて最後は孤立して人間関係に懲りるまでギスギスする環境が付き纏います。社會の中で協力をしない大人のモデルは子どものためにもなりませんから、理念実践を積み上げて、理念を中心に協力のある社會を譲っていきたいと思います。

聴けない自分

人は聴くということができるようになり素直を磨いていくものです。聴くというのは、保身があるほどにできないものです。思いやりや真心の実践をする人は、相手がどれだけ自分のことを思ってくださっているのかを自覚しますが自分勝手な人は自分を頑なに守ろうとして自覚することもありません。言い換えれば、人は素直でなければ周りの善意を受け取ることができません。

善意には色々とあります。

人は価値観が異なりますからその人にとっての善意はその人にとっては迷惑だったりすることもあります。しかし本当の善意は真心ですから、それは有難く感謝のままに受け取ることが聴くということです。自分の都合ばかりを優先しては、他人の話が聴けないではそのうち誰もその人にアドバイスやヒントを与えてくれることもなくなってきます。

自分のペースでやりたいというのもあるのでしょうが、本来の自然は自分のペースなどに合わさせようとはせず自然の変化に自分の方が合わせていくことが素直に順応するということです。自分を変えるには、周りの自然の声や周りからの善意や真心を受け取る感性が磨かれていなければなりません。その感性はどのように磨くかといえば「聴く」ことですが、この時の「聴く」は言い換えれば感謝や御蔭様、報恩の実践のことです。

その逆の「聴かない」とは固執や頑固、こだわりが強すぎれば傲慢になり調子にのることで謙虚さを失い、素直を忘れ不徳を行いますから孤立していくように思います。

「聴く」というのは自分から積極的に順応し変わるということです。

そして私たちの言う「聴福」、つまり聴いて福にする実践というのは素直さを磨き謙虚を高める行為です。福にできるのは、善いことへと転じようとする善意の転換ができるということです。善意は他人によって様々ですが善意を受け取る感性によってそれをさらに善きものへと昇華していくのは自分の主体性と素直さが必要です。

自分から変わろうとしている人は常に聴くことができ、自分から頑固に我執に固執する人は受け身になっているから聴くことはできません。変わる機会を頂いているときこそ、思い通りにならない時です。

そういう時は、自分の耳触りがいい言葉ばかりを望むのではなく丸ごと受け容れる覚悟を決めて何が間違っているのかまず矢印を自分に向けて反省し、日々に内省を深めていくことで聴く心を開いているようにしていくのがいいように思います。そもそも心は閉じたり開いたりを自分勝手にしていては本心には出会えませんから、心は常にオープンであることを自覚している素直さを一生持ち続けたいものです。

聴くことは変わること、聴けない自分にならないように、常に心をオープンにして何でも転じて一円観を育てて未来の子どもたちの御役に立てるように今を精進していきたいと思います。

呼吸の基本~ひのチカラ~

朝起きて囲炉裏に炭をおこすと再び炭に火が入り澄んだ紅色に染まります。その炭は呼吸をしているのが分かり、まるで心臓の鼓動のように波打ちます。そして次第に消えていき、最期は灰になります。

これは私たちのいのちにも似ています。

自然万物は呼吸をすることで生きています。呼吸とは、空気を吐いて吸うことですがこの空気とは単に今の科学で分析されている酸素のことではありません。私が思う空気は、酸素ではなく宇宙の中にあるダークマター、まだ解明されていませんが「いのちの気」のようなものです。

そういうものを万物はいのちを通して呼吸します。炭でいうのなら、紅色に染まっていく過程の中でたくさんの空気を呼吸して燃えていきます。これはいのちや魂で例えるのなら、呼吸をすることで常に気を通しいのちや魂を燃やしていきます。そして人によりますが、途中で燻って炭のままに終えるものもあれば最期まで燃えきって灰になるものもあります。

これは囲炉裏で息を吹きかけて燃やし続けるように、日々に呼吸をし燃やし続けなければ燃え切ることもないのです。いのちや魂が燃え切れば、灰になりそこから復活がはじまります。途中で炭のままに火が消えれば、また新たな火を誰かにつけてもらうかでなければ火は入りません。

自分の火を自分で燃やすのは呼吸することです。太陽系の地球をはじめいのちや魂が冷めないのは呼吸をするからです。呼吸は自らが吐出すこと、そして吸込むことで行われます。

自らが発していると自らに入ってくるというのが呼吸の基本です。

常に燃え続けていくように呼吸を味わい、情熱を絶やさぬように火を容れながら燃え切っていきたいと思います。

澄の文化~炭と囲炉裏から~

今ではほとんどが西洋文化によって住環境が変化してかつての暮らしから離れていますが、私たちの先祖たちが育んだ智慧はまだ完全に消失してはいないものです。囲炉裏一つ深めてみても、あらゆるところに先祖たちの真心を感じます。

この囲炉裏の文化は、使ってみることでより理解が深まるものです。

例えば、料理をしていると煮込み、焼き、燻製、炒め、あらゆるものが炭火によって可能です。西洋の暖炉は火加減ができませんからグリルが中心になりますが囲炉裏は小さな火も加減できますからじっくりと食材に合わせて調整することができます。

西洋の暖炉は薪を多く使うため灰もでますし煙突も煤で汚れて掃除が大変ですが、その点囲炉裏は薪を使う量が少なく済みますから掃除もあまりいりませんし森林のことまで配慮した使い方ができます。

西洋では薪をあまりにも多く使うため、その分、森林破壊が進んだといいます。ドイツでは森林が維持できるように森を維持するためにあらゆる工夫や自分たちの暮らしが森林破壊で酷い目にあったことを忘れないためにも森林維持にはとても気を使っています。

その点、日本では囲炉裏文化の御蔭で森林も破壊せず自然と共生し持続可能な状態を維持してきましたからあまり森林破壊については意識することもなくなっています。むしろ、建築様式が変る前の住宅用の木材としての杉を森へ植え続けたことで森の形が不自然に変わってしまったことの弊害の方が問題になっています。

そして西洋と異なり私たちの文化で発展したものは炭です。炭は日本の国土、囲炉裏と深い関係があります。今では電気ストーブ、電気こたつ、電気空調があたりまえですがかつては炭によって私たちは寒さや湿度を調整していました。

一年中、炭によって住環境を自然と調和するように維持し、一年中、過ごしやすい住環境を確保してきたとも言えます。その炭の灰には、虫を近づけず、腐敗菌やカビなどの発生を抑制する効果もあり、また麹菌を元気づけ発酵を促進する効果もあります。不思議なことですが、特別に麹菌は炭や灰との相性が抜群に善いのです。酒蔵に炭があるのも、味噌や漬物が灰と相性がいいのもまたこの炭のチカラがあるからです。当然、人間にとってもこの炭と灰は健康維持には欠かせず、囲炉裏の生活をはじめると稲の文化と同じように永い間一緒に暮らしてきたパートナーの一つであった証拠をあちこちに感じます。

炭は「澄み」の韻をふんでいますが炭を身近に置くことは心身の浄化を促進し、より一層、真心や精神を磨く効果があるのかもしれません。この魂の「澄の文化」は私たちは炭から学んだのかもしれません

子ども達が日本とは何かと思い出させなくなるほどに今は西洋文化によって日本の文化が上塗りされていっています。住環境においてはほとんどもうかつての日本の暮らしの様子が消えています。しかし、私たちが誇りにし子孫が自信を持つものは常に日本の先祖たちがどのような暮らしや生き方を身近に置いてあげることです。

親がどのように生きてきたかを子どもたちは忠実に参考にして自分のものにしていくことこそが文化の源泉です。日本文化を次世代へと継承するには子ども第一義の理念においてとても重要なことです。

私たちは国際の中にいる日本人です。世界に出ていく前に自分の先祖の文化を深めずに世界で何の役割を果たせるというのでしょうか。先祖たちが永い時間を懸けて積み上げてきた日本人としての生き方こそがこれからの世界には必要なのです。引き続き、身近な道具を見直し、日本の真心を見つめ直していきたいと思います。

 

会得する価値~好きになる~

全ての物事は出来事は、文字では分かることはありません。実際に実践してみて自分で会得していくものです。そのためには、あらゆるものを自分本来の主体的な情熱と行動、実践によって近づいていくものです。

孟子に「尽く書を信じれば 則ち書無き如かず」があります。意訳すれば本に書いていることをもしもすべて信じるのなら、本などは要らないという意味です。実際に本に書いていることがそれが真実であっても、その真実は実践しなければ掴むことはできません。もしも空想の世界で評論だけを行うのならばそれで済みますが生身の人間は生きていますからそれを体得し会得することで実際の世の中に通じて役立てることができるからです。

文字というものはとても便利ですが、その便利さ故に実践することを怠っているのなら本などは必要ないように思います。

原始の人たちは本や文字などもなく、先人や親、隣人の実践をみては真似をし盗みとりました。それは伝承とも言いますが、文字を使わずに何度も何度もやってみては同じようになるように学び取ったのです。

今の時代は言葉ばかりを知っていても行動するわけではなく、行動の量が少ない割に物知りの人ばかりです。分かっても分かった気になるだけならば分からない方がまだいいかもしれません。

分からないからこそやってみたいと思うことが本来であり、分かった気にならないからこそいつまでもそれを深めたいと思うことができるからです。

生きていると時代も変化し、周りも変化し、自分もまた変化していきますから頭で分かってその時だけ乗り切ってもまた環境が変化すれば同じことをしなければなりません。体得して会得するのなら自然に乗り越えられることも、いちいち頭ばかり使ってその場しのぎをしていたらまた同じことが起きても同じように乗り切れないかもしれません。

実践していくということは、好奇心旺盛にそのものを勇気を出してチャレンジし好きになっていくことです。やることが愉しくなってきたならばもうそれで成功とも言ってもいいかもしれません。好きになるまでやる、愉しくなるまでやる、それを会得するまでやるというのは本来の主体性のように思います。

好奇心旺盛な子どもたちが真似をしたがるような大人のモデルになる様に、あらゆるものを愉しんで好きになり遣りきってやり遂げていきたいと思います。

変化のお手本

人は成長する過程の中で、如何に今の自分を受け容れるかで変化を歩んでいくものです。今の自分を受け容れるというのは、自分が選択してきた今を認めるということです。認めることができるのは、自分自身を認めているから自ずから認めることができるように思います。

人はかつて自分の成功体験というものを誰にしろ持っています。そこを起点に、こうでなければならないと自分がいつもその成功したときの感情を維持しようと昔の自分を持つものです。齢をとると変わりにくくなるのもそのためです。しかしその昔の自分と今の自分は、周りの環境が変わっただけではなく関わる人も変わり、時代も変わり、そして自分自身も変わります。その自分自身をいつまでも変わろうとはせずに執着していたら頑固な人になってしまいます。

この頑固さとは柔軟性のなさであり、今の自分を受け容れることが出来なくなっているということでもあります。こうでなければ、こうあらねば、つまり「ネバネバ」すると縛られ頑なになり、囚われ、凝り固まっていくものです。これは真面目すぎて正しいばかりを押し付ける「ジメジメ」と似ています。

結局は過去の自分を手放すことができるかどうかが変化を受け容れるということなのです。

過去の自分に固執して、過去の自分の成功体験を再びと願うよりも周りの人たちが慶んでくれる自分になっている方が仕合わせなものです。それにできないことばかりを求めては頑固に周りをその成功体験の時の状況になるように引き寄せようと努力するよりも、自分にしかできないことで自分のできることを精一杯やって、自分の持ち味で周りの人たちが倖せになる様にと自分をぱっと変えてしまい働いた方が感謝され、その感謝の声を浴びている今の自分をもっと好きになれ、素直に今の自分を認めていくことができるように思います。

自信というのは、過去の成功体験にしがみつくことではなく今の自分でできること全身全霊で精一杯役立てるようにいる方が悔いもなく潔く快活、そうやって周りの御蔭様で自分らしくいる自分に具わるものです。自分らしさを自分勝手とはき違えては、周りを無理に自分らしさに合わせようとするから余計に自信がなくなっていくのかもしれません。自分を貫くというのは大事なもの以外のことは何を変えてもこだわらないというのが本質でありプライドを維持するということではないのです。

そして本当の自信を持つ生き方というのは、「今を生き切る」ということです。

本当に今を生き切っているか、今できることを遣りきっているか、自分の持ち味を活かして全体のために使い切っているか、自分を気にする前にもっと自分を活かし周りを活かすために自らのいのちを役立てていく方が自信に満ちた人生を送れるように思います。

何があっても自他を活かすという信念が柔軟性であり、変化を受け容れそれを味わい楽しむ能力です。そして本物の自信は変化した分だけ増えていきますから、思い切って今までの自分を捨てて新しい自分に出会った方が愉しさもまた倍増していくものです。新しい自分に出会い続ける人は、頑固になることはありません。なぜならそれまでの自分を捨てることに迷いがないからです、それは遊びながら挑戦し成長する好奇心旺盛な子どもの姿そのものです。何でも好きになって楽しんでしまう子ども心のままに生きているならばもうそれは変化そのものです。

この変化は自然の法理です、そして子ども達は変化のお手本ですからその子どもの姿から学び直しつつ、勇気をふりしぼってはチャレンジを一杯やって日々の変化を味わい盡して、役立てる仕合わせやご縁に感謝して歩んでいきたいと思います。

委ねること~天命を見守る~

見守る保育には保育計画をたてるのに「DO→SEE→PLAN」というものがあります。一般的には「PLAN→DO→SEE」といって保育計画を立てて行われます。

そもそも見守るという言葉は、操作するのではないのだから相手の主体性に寄り添うものです。寄り添うのだから自由な環境の中で主体性を発揮した人に対してそれをどのように発展させていくかということが重要になるのだから先に相手をコントロールすることは見守ることにはなりません。

言い換えれば、コントロールしないということです。

これは生き方にも顕れてくるものです。いちいち先々に起きることをすべてコントロールできると考えている人は、偶然を排除していくような計画を立てるものです。問題が起きないようにと操作していけば、体験することが味わえなくなっていきます。しかし実際にコントロールしないと委ねていく人は、発生する出来事はすべて必然であると思っていますからそのことに寄り添いながら体験や成長を味わっていくことができます。

つまり極端ですがこれを人生に置き換えると、人生を感じるのにおいて、天命に従い味わい深い方を選ぶか、それとも天命に逆らってでも自分の思い通りにしていくかということにまで生き方を観るような気がします。

見守るという生き方は、そのものが持つ天命をよく見てその天命を活かすというその人らしさを大切にするような生き方のように私は感じています。誰しも人は一人ひとり意味が異なりますし、その発生する出来事は自らの本心が選んで訪れる出来事であり必然ですからそこにわざわざ逆らうのは不自然になっていきます。

委ねるという心境は、「来たものを選ばない」という覚悟でもあり、「有難く引き受けます」といった受け容れる覚悟でもあろうと思います。体験させない人生というのはこれの逆のことで、無難ばかりを求めてしまうかもしれません。

教育や保育というものは、その人の無二の体験をどう見守るかにかかっているようにも感じます。その時の導き方は導く人の生き方がお手本になり、それを見た人が模倣したり真似をして自分の中に道理を獲得していくように思います。

知識を教えることは委ねたり信じたり待ったりすることとは異なり、操作や管理するためになってしまえば本来の自立や主体性は引き出されないように思います。操作しない、管理しないというのは本人の意思を尊重して委ねることであり認めるということにつながっています。

本当の自分との付き合い方にまで発展していく議論ですが、本来の自分で生きようとする人たちにはこの「見守る」ということはとても大切なキーワードになっているように感じます。一人でも多くの人たちが、本当の自分自身に目覚め、そして自分らしくいて自分を社會に役立てる仕合わせやご縁の有難さに気づけるように、社業に邁進していきたいと思います。