全ての物事は出来事は、文字では分かることはありません。実際に実践してみて自分で会得していくものです。そのためには、あらゆるものを自分本来の主体的な情熱と行動、実践によって近づいていくものです。
孟子に「尽く書を信じれば 則ち書無き如かず」があります。意訳すれば本に書いていることをもしもすべて信じるのなら、本などは要らないという意味です。実際に本に書いていることがそれが真実であっても、その真実は実践しなければ掴むことはできません。もしも空想の世界で評論だけを行うのならばそれで済みますが生身の人間は生きていますからそれを体得し会得することで実際の世の中に通じて役立てることができるからです。
文字というものはとても便利ですが、その便利さ故に実践することを怠っているのなら本などは必要ないように思います。
原始の人たちは本や文字などもなく、先人や親、隣人の実践をみては真似をし盗みとりました。それは伝承とも言いますが、文字を使わずに何度も何度もやってみては同じようになるように学び取ったのです。
今の時代は言葉ばかりを知っていても行動するわけではなく、行動の量が少ない割に物知りの人ばかりです。分かっても分かった気になるだけならば分からない方がまだいいかもしれません。
分からないからこそやってみたいと思うことが本来であり、分かった気にならないからこそいつまでもそれを深めたいと思うことができるからです。
生きていると時代も変化し、周りも変化し、自分もまた変化していきますから頭で分かってその時だけ乗り切ってもまた環境が変化すれば同じことをしなければなりません。体得して会得するのなら自然に乗り越えられることも、いちいち頭ばかり使ってその場しのぎをしていたらまた同じことが起きても同じように乗り切れないかもしれません。
実践していくということは、好奇心旺盛にそのものを勇気を出してチャレンジし好きになっていくことです。やることが愉しくなってきたならばもうそれで成功とも言ってもいいかもしれません。好きになるまでやる、愉しくなるまでやる、それを会得するまでやるというのは本来の主体性のように思います。
好奇心旺盛な子どもたちが真似をしたがるような大人のモデルになる様に、あらゆるものを愉しんで好きになり遣りきってやり遂げていきたいと思います。