人は競争や比較の刷り込みを持つことで、完璧主義に幻想を抱いていくものです。これは集団社会の中で、サボらない人をつくるために「真面目で責任感がある人」をつくりこんでいくように思います。人間は、やらされていると楽をしますから楽をしない人をつくるように育てるのが今の学校のやり方でもあります。
しかしこの真面目で責任感があるという人には落とし穴があります。自分でやろうと主体的な組織に入った時には、どうしていいかわからなくなるのです。
真面目で責任感があるというのは、自分を責めて最後まで完璧に仕事をするという意味で使われますしかし本来の真面目という意味は、目的や理念に対して真剣であることです。そして責任感とはすぐに実行する行動力のことです。理念を優先するからこそ協力を惜しまないのが本来ですが、競争して比較して協力しないでというのは小さな自分に囚われて周りを自分のために利用していることになるかもしれません。真面目で責任感というものを勘違いしてしまうと人を許すことが出来なくなります。
先日、訪問した沖縄教育出版社で「I am OK! You are OK! We are OK!」の社憲を見ました。これは自分もOK、相手もOK、みんなOKという意味ですが、みんな許し合い協力しますという大切なメッセージが入っているように感じました。
つまりは持ち味を活かすというのは、自他を許し、皆を活かすことを優先しようということです。その理由はなぜかといえば、目的や理念を優先するために他なりません。
本来の自分を取り戻すには、小さな価値観に縛られる自分を自ら手放してもっと大きなものに自分を近づけていく必要があります。その基本を腹に据えるものが「理念」だと私は思います。
いつまで誰かに目標を与えられて使役されるままの自分でいるのか、そうではなく自分自身の意志と積極的な信念で目的のために生きていく本当の自分に出会うことが必要です。人間が自立するというのは、本当の自分自身になるということだからです。そして自分自身で歩んでいくことが道であり、志を立てるというのはまず理念を自らの基本に据え置くということでしょう。そうやって道を志すとき、人は実践という歩みを安心の境地で進んでいくことができるように思います。
まず最初のそれまでの競争比較刷り込みを抜け出すには、刷り込みの自分を超える必要があります。そしてまず自分自身と向き合う前に、何をモノサシにして向き合うかが大事です。そのモノサシは理念です。先ほどの「みんなOK!」は刷り込みのない自分のままに自他の成長を味わって自分の持ち味をみんなで活かそうとする素直な言葉です。まず取り組む前に、「誰も責めない=みんなOK」と決めることが許しのはじまりであり、その実践こそが心をオープンにして自他を開放することだと思います。
自分を責める人は他人を責め、そして全てを責めて最後は孤立して人間関係に懲りるまでギスギスする環境が付き纏います。社會の中で協力をしない大人のモデルは子どものためにもなりませんから、理念実践を積み上げて、理念を中心に協力のある社會を譲っていきたいと思います。