昨日、ある保育園の公開保育に参加して藤森先生の講評を拝聴する機会がありました。そこでは「主体的」の話があり、幼児教育の原理原則として当然のことであり、それをどのようなアプローチで実践するかに見守る保育があると仰っていました。
また気づいたことの中で「環境が主体的な子どもをつくるのではなく、実際は主体的な子どもが環境を使いこなす」とも仰っていました。発達を保障していくとは何か、学び直す機会になりました。
そもそも主体的であるというのは、人間は本来、主体的な生き物です。これは自然物はすべて主体的と言ってもいいかもしれません。それが刷り込みによって主体が失われていくことで発達が歪まれていくように私は思います。
人は誰しも遣りきっている人は主体的であるものです。中途半端に遣りきることをやめてしまえばそこには主体が失われていることに気づくものです。やりたいことを自由にやる環境があるといっても、実際に自由になったからやりたいことをやるわけではありません。
本来、どんなことであっても自分のやりたいと決めた選択を自らが遣り切りやり通すというのが主体のことです。主体が遣りきっていないのに本来の自分の好奇心が目覚めることもなく、自分自身が環境を創造して自分らしく生きていくことはなかなかできません。
人は自分の決めたことを遣りきっていく中で、本来の魂の天命というか自分らしく自分を生きていくことができます。同時にその生き方が他を活かし、自他を活かし合うことができるように思います。
そしていつから刷り込まれ主体性が消失していくのかをみれば、産まれた時からの環境が大きな影響を与えていることに気づくのです。その環境の刷り込みをどのように取り払っていくか、それに気づけるかがその人のその後の人生を大きく左右するように思います。
私たちが見守る保育の道を弘げたいと願うのもまた、この主体性の発揮こそが要であり、発達を見守ることがそのものの主体を信じることにつながるからです。子ども達の目がいつまでもキラキラと輝き時代時代を生き切ることができるように見守っていきたいと思います。