太陽暦、太陰歴というものがあります。
昔の人たちは人間は太陽と地球の位置を基準に一年を感じたり、または闇夜の月の満ち欠けの状態で一月を感じていました。他にも身近な昆虫や植物、鳥たちの鳴き声を頼りに時間を確認していたのは自然のことのように思います。
自然と共に暮らし自然のリズムに合わせて生活していた頃は、人間都合、自分都合はあまり優先されていなかったように思います。「時間」というものの感覚もまた昔の時と今の時とでは異なっているように思います。
人間社会の時間というものは人間の都合で期限があり、誰かの期限やスケジュールに合わせていくものではなかったように思います。時間の奪い合いや取り合いになっているのはとても残念なことのように思います。本来は「時が満ちる」「機が熟す」というように、自然に来るものを信じて待つかのような時間間隔をそれぞれで持っていたように思います。これは自然農で野菜や稲を育ててみればすぐにわかることですが、こちらが意図的に無理やり動かすのではなく、見守り信じて待つのです。
しかしただ何もしないことを待つというのではなく、時が満ち、機が熟し、善い頃合いになるまで人事を盡して待つのです。そこには、自然を信じる心があり、自然に精通している生き方があります。
今は、何かとすぐに自分の思い通りにいくことを自然だと勘違いしていることが多く、すぐに自分の予定通りにいくことをベストだとし、時間というものの認識も私物化されているように思います。
時間は誰にしろ共通のものですが、人それぞれによって持ち時間というものは異なります。短い寿命で終わる人もいれば、長い寿命も持つ人もいます。出会い別れがあるように、時間は常にだれにしろ一期一会ですから大切にすることは勿論です。しかし、そういう期限がある時間もあれば、自然には悠久といった無限の時間もまた存在します。
御縁も結びも繋がりも絆も、それは記憶と言っていいかもしれませんが期限のない時間というものも存在します。そしてそれもまた永遠の一時といった一期一会であろうとも思うのです。
時間というものは、本来は自然の中に存在するものです。
だからこそ、時が満ち、機が熟すことを待つ中で感じるものではないかと思います。信じている人に不安がないのは、それを自覚しているからかもしれません。時が来ればかならず人は気づき、そして原点回帰すると信じているのでしょう。
いただいた時間を子どもたちに譲っていくためにも、信じる実践を積み重ねていきたいと思います。そういう信じた時間こそが、本来の時間感覚を呼び覚ましていきます。信じる時間を大切にしていきたいと思います。