見方の転換~福の実践~

私たちは今自分が立っているところを中心に物事を観ようとするものです。

かつてニコラウス・コペルニクスという天文学者が地球を中心に宇宙はまわっているという説を覆し、太陽を中心にまわっていることを発表しました。これを哲学者のカントがコペルニクス的転回と呼び、物事の観方がまったく別のものになったことを言いました。

実際に、私たちの価値観もまた似たようなものがあります。人は自分を中心に物事を考えて自分を中心にまわっていると思い込むものです。しかし本来は、科学ではサムシンググレートと言ってもいいし、東洋では「天」と呼んでもいいのでしょうが自分以外の偉大な存在によって活かされていると感じれば物の見方は変わってきます。最近では、望遠鏡も発達しその太陽もまた銀河を中心にまわり、その銀河もまた大宇宙を中心にまわっていることが分かっています。

そこから自分を中心に物事は動ているものは実際にはこの世には一つもないということが分かります。これを循環とも言いますし、御縁とも言います。

生きていると自分の思っていたことは起きなくても自分の思っている以上のことに出会っていることに気づくことがあります。そして自分があたりまえに生きていると思っていたら実は本当に多くの御蔭様で活かされていることに気づくというものもあります。

これらも全てコペルニクス的転回であり、自分を中心にするのではなく偉大な何かを中心に据える謙虚な心があれば物事はまったく別の観え方になるのです。

以前、小林正観さんが「見方道の家元」を目指しているという御話をお聴きしたことがあります。物事の見方を転じて観れば実際は、まったく別のことに気づけるということです。

実際に自分の知っている知識にこだわり、常識と思い込んでいる自分の価値観の中から出ずに偏見ばかりを貯め込んでいくことが齢をとることだと勘違いする人が多いように思います。アインシュタインは、「常識とは、18歳までに身に付けた偏見のコレクションである。」と言います。

どれだけ偏見をもってしまっているかも本人は気づかないものでしょうが、実際は偏見を捨ててあるがままに物事を素直に観えたり、他人の話を謙虚に聴いて学び直しをする人は常識を超えた真実を持っていたりするものです。

常識に縛られるということは、偏見を持つということです。如何に常識を壊して本質を捉えるかは自分自身の見方を転換できるかどうかによります。そしてその転換は、「気づき」によって産まれます。

よく「知っている」方が偉いと思い込む人もいますが、実際には知っているというのは膨大な情報の一部を知っているだけのことです。もしも「知らなかった」と素直に言えるのなら膨大な情報があることを知っていることになるように思います。人に素直に「知らなかった、教えてください」と話を聴ける人は無限の見方を持つ人だとも言えます。

学問の本質は、常識に囚われないことのように私は思います。

偏見のコレクターからすれば偏見の塊が変人でしょうが、変人だからこそ常識に囚われない新しいことを産み出せるように思います。それぞれ人には役割がありますから、それぞれが地球や人類のために自分を最大限活かし切ることで新しい時代が切り拓かれ道が続いていくように思います。

日々は自分の偏見を捨てていく学び直しの日々、子ども達のためにも様々な見方をもってすべてを福に転じて味わっていきたいと思います。