祈りの実践

先日、あうん健康庵にて有難い真心の籠った最幸のおもてなしをいただき私たちにも一生の思い出ができました。御縁は本当に有難く、「祈りの力」という小松先生の著書のタイトルに惹かれて知人からご紹介をいただいてから自然治癒ということの本質について深めることができています。

そもそも「いのり」というものをどのように定義するか、そこに祈りのチカラを自覚するかどうかの差異があるように思います。日々に「祈りの力」を実践するものこそが、その祈りによって世の中が働いていることを知る様に私は思います。

かつて「代表的日本人」を著し、世界に日本人の徳を弘めた内村鑑三が「聖書之研究」の中で「祈りの特権」という語録を遺しています。

『人は窮すれば人に頼む。人の援助を得て窮地を脱せんとする。そして人の援助の絶えし時に行詰りたりと云う。彼は、おのれに祈祷の特権あるを忘れるからである。何がなくとも祈る心はある。これさえあれば、われに万物ありである。』

私の意訳ですが、「人が困窮すれば誰かに助けを求めそれが尽きた時、行詰るといいます。しかしこの時、自分には祈りがあるという実践、その初心を忘れているからそうなるのです。どんなものが不足しても祈る実践はできないことはない、つまりこれさえあるのなら自分には万物が足りているのです。」

人は祈ることを忘れることで困窮していきます。言い換えれば祈らないから困窮するのです。この祈りというのはピンチこそ祈るのではなく、やはり日々に初心を祈ることのようにおもいます。この祈りの特権というのは、人が素直になり謙虚になる唯一の方法です。困窮して行詰るのは自己中心的で自利にばかりに心を奪われてしまうからとも言えます。もしも利他に生き、三方よしの全体のためにと人事を盡して天命を待つ生き方をしているのなら困窮ではなく天から与えていただいた試練だと感じるものです。

それは「試されごとは頼まれごと」という言葉もありますが、それだけ天が頼ってくださっていると感じる感じ方もあるのです。試練は「初志」を鍛錬し、「初心」をも研磨してくれますからその試練によって人は養分を得て養生し成長するとも言えます。

話を戻せば、祈りの力というものは日々に初心を忘れない実践を行ういます。それは理想を信じる中で魂を純粋にし、魂のままに遣りきっていくことに似ています。

世界には同じようにこの世に産まれてきて何かを直感し、生き方を変えて一隅を照らしともに世の中を明るく美しくしようと実践する方々が沢山います。そういう人たちと一緒に祈り続けるのなら、いつの日か必ず人類は目覚め安心の世の中を築いていくはずです時、大事なことは真心と思いやりを忘れずに一緒にいつまでも祈りの実践を行うことのように思いますそうすることでたとえ時代り変わっても伝承され継承され、その祈りは永遠になり無限の刻を歩み続けていきます。

「祈り」は人間に与えられた「至大至高の叡智」であるということです。

最後に内村鑑三はこう締めくくります。

『祈祷の哲理を解せずといえども、祈祷の実力を知る。われは弱き人である。されども祈祷の人である。ゆえに強くせられ、また人を強くすることができる。大なるかな、祈祷の特権。』

未来がどうなるかは、今の自分の祈りの実践によります。倦まず飽かず怠らず、精進を続けて子どもたちの未来のために祈りを積み重ねて研ぎ澄まし、祈りそのものに近づいていきたいと思います。