感覚の世界~研ぎの志~

昨日、三重県松阪にある月山義高刃物店にて藤原将志三代目から研ぎについての講習を受ける御縁をいただきました。昨年から「磨く」ことをテーマに、深めていると鐵に出会い、鐵から砂鉄に出会い、砂鉄から砥石に出会い、そして研磨に辿りつきました。

研磨という世界は感覚の世界であり、この感覚の世界をどれだけ大切にするかに由ります。日頃から切れ味知り、観る目を凝らしてミクロの世界を感じることやマクロの世界を味わうことは、自分自身の感覚を研ぎ澄ませていくものです。

今回の体験でもかつて日本人たちが如何に鋭敏な感覚を日頃から持っていたかというのを実感しました。これらの日本の技術が廃れていくのは本当に辛い思いがしますが、次世代、もしくはさらに先の世代が必要としたときその技術がこの世になかったではあまりにも悲惨なことになります。

だからこそ今を生きる私たちは、ちゃんと子ども達や次世代のことを考えた志業を行う必要があるのです。今回の研ぎでもまた、その文化の一端に触れる機会になり、これら実践していく上で何よりも大切な志をいただいたような気がします。

物はモノではなく、志があります。誰がどんな思いをもってそれを造り、誰がどんな祈りをもってそれをつなぐか。つまり物はその誰がが語るから、物語なのです。たたら製鐵を遺し鍛冶をする刀匠、そしてミクロの世界を科学し研ぎの真髄を語り続け研鑽を続ける研ぎ師、そのお二人の姿から大切なことを学び直した気がします。

研ぎについては、「切れ味」という世界があることを知りました。

つまりは、物は切れ味次第で実際の素材の味も変わり、持ち時間も変わってくるということです。この切れ味が分かってくることが、何よりも最初の感覚の世界であり、これが観えるか観えないかが最初のコツのように思いました。

切れ味とは辞書に由れば、「刃物の切れ具合、才能・技能の鋭さ」とあります。他には「切れ味が良すぎる」や「切れ味が冴えた」という言葉もあります。そして私自身も切れ味については学んでいる途上で、如何に本質にシンプルに辿りつくかを思う時、そしてそれが最も正確無比で余計な言葉がそぎ落とされたとき、切れ味を思います。

切れ味については最後に印象深いことを仰っていました。

「善い研ぎ師であればあるほど、研ぎすぎることがない。」

だからこそ天然砥石を用いるそうです。これは自然の世界と同じであり、天然であればあるほど我が抜けているということです。天然の持つ砥石に磨かれるというのは、その調整力を身に着けるということではないかと直感しました。

早速実践をはじめ、境地を得てみたいと思います。

むすひ~自然のチカラ~

神道では「むすひ」という概念があります。むすひは、むすびであり、結びでもあります。また、産霊や産魂ともし発展していくことを顕しています。

よく神社には「おみくじ」というものがあります。これはその時々の神託を心を澄ませて聴くことで、また一つ御縁を学ぶためにもあります。よく占いでおみくじをひく場合もありますが、本来は何を教えてくださっているのかと心静かに素直に拝読していくことが「むすひ」の意味と合致しているように思います。

そもそも造化発展していくむすひのチカラというのは、自然の持つチカラでもあります。自然界は全てを無に帰そうとするチカラが働きます。それに対してもう一つ自然は、共生というチカラを使いその無に帰そうとするチカラと融和しようとします。これらの矛盾は自然の持つ本来のハタラキであり、それらを総じて「むすひ」と呼び、魂をこの世で磨いていく環境になっているともいえます。

畢竟、この世に存在するということは魂を磨きにきているということもここから分かります。

では神社の意味が何かということをここから深めてみると、やはり魂を磨くために存在するように思います。祓い清め、掃き清め、心を澄まし自然の霊亀に心身を委ねて原点回帰していくことは穢れを洗うことにもつながります。これらの清浄化することは、先ほどの無に帰すことと同質化しています。そこに融和するハタラキである共生が出てきます。神木に苔がむして何百年もこの世に存在するように、杜は共生を顕し、その杜と共生することで魂磨きの砥石にします。

これは人間と菌の関係も同じく、御互いに弱いところを補って共に助け合い共生することで自然に無に帰すチカラに融和しこの世に末永く遺り御互いを見守り合うことで魂磨きを成就させるのです。これこそ偉大な「むすひ」の徳恵です。

かつてから流れている自然界にある一本のせせらぎ、そしてかんながらにある一本の道、そこには共に助け合いそして結びあった足跡が遺っているものです。

おみくじひとつひいたなら、それを見て天の助けが入ったことを感謝しその真心と如何に自分の真心が結ぶか、大吉か凶かが問題ではなく助けてくださっている御蔭様を感じるその共生感謝の念こそが何よりも大切だと私は思います。

日々は自分勝手に解釈をして、本当にその人が伝えてくる真心をうけとらず、自分の都合ばかりを優先しますが、少し謙虚に物事を偉大な大恩人、尊敬する祖神を前に教えていただいているという気持ちで聴けるようになりたいものです。

魂磨きは磨くことに目的がありますから、永久に途上です。

私が子ども達の発達に関心があるのも、この「むすひ」のチカラを信じているからかもしれません。何を守ることが、子どもを守ることか。発達とは発展の権化です。子ども達のためにも、縁結びを大切に助け合い見守り合う生き方を譲り遺していきたいと思います。

先祖の真心

日本には古来から山岳信仰というものがありました。山を畏敬し、山から学び、山と生き、山に棲むのです。今での古神道では、その太古からの信仰を伝承しているところが多いと言います。

私も物心ついた時から地元の霊山によく登山し、知らず知らずに沢山の恩恵を受けてきました。齢を経てからさらにいくつかの御縁の深い山との出会いがあり、あらゆる面で助けていただいているように思います。

この御山というものは、民俗学の伝承で柳田国男は農民の間に日本古来の信仰があったといいます。春になると「山の神」が里へ降りてきて、「田の神」となって稲の生育を守護し、稲の収穫が終わる秋になると再び山に帰って「山の神」となる、という信仰です。これは祖霊とか穀霊、水や木の精霊といったもので、古神道の原形でそこには身近な動物が、神になぞらえられたり、神のお使いとされました。「山の神」なら猿、狼、猪、大蛇、熊などがまた狐は冬から春にかけて山から降りてくるため稲荷神として信仰されています。

御山を信じ、その御山に棲むものを神様の依代であると崇拝し御山の持つ清々しさや畏敬、その他を感じ取っていたということかもしれません。そして山々にも個性があるように思います。私の人生でよく接している山々、富士山、高野山、三輪山、英彦山、鞍馬山、大山、どれも同じような山とは感じません。

不思議なことですが、私たちの先祖に山岳信仰が山の気というものがありその山々の持つ神聖なものを感じているように思います。そしてその御山を産土として祀り、奥の院は山頂、もしくはもっとも深い場所へ、麓には神社を設けました。その御山との御縁を結び、御山を中心に暮らしを行った形跡があるのは間違いありません。

毎年、御山に来ると荘厳な気持ちになり、様々なインスピレーションがあるのはその御山との御縁を感じるからかもしれません。御山に入り、御山の霊気に触れるということが元気を確認することになり、その元気によってまた山を下りて平野で活動していくのです。そう考えると御山と縁結び、山に棲み山から降りて山に帰ってくる。水の流れとともに沢になり川になり海になり雲になり雨になって戻って来る。水の流れと同じであることを感じます。そして水が最も澄んでいるのは山から湧き出してくる水です。この水のおいしさをいのちは知っています。

西行法師が伊勢神宮を参拝した際、「なにごとの おわしますかは 知らねども かたじけなさに なみだこぼるる」という詩を詠みました。

御山にはいつも助けられており、同じように有難い存在に「かたじけなく」感じるものです。今年の年頭祈祷でも御山に触れる機会を得て、御山の存在に学び直しができることを有難く感じています。

先祖の真心に触れ、先祖の真心に近づいていきたいと思います。

 

心身一如~心の観ている世界に近づく~

物事という出来事には光と影があるように、それぞれに別の側面を持っています。例えば、嬉しいことがあればその陰には悲しいことも同時に増えていくとも言われます。勝負の世界なども、勝ち負けがある以上、どちらかが笑いどちらかが泣くというように側面が発生します。

人生も同じようにこの側面はどんな出来事にとっても発生しているとも言えるのです。人生の意味を深めていると、この側面について考えることで人生の妙味を感じることができるようになります。

一見、それは禍に見えているようなものが実はそれが福になったり、一見、失敗に見えたその出来事がその後の人生の大成功につながったりと、目先の自分の小さな視野では理解できないこともその意味を深める力があれば別の側面から冷静に観察することができるようになるということです。

人間は自分の執着を持ち、その執着ゆえに一つの側面にしがみ付きたくなるのかもしれません。そんな時、どうその側面以外の側面を見出し、丸ごと受け止め受け容れて「見方を転じるか」、言い換えれば違う側面を見出すことができるかがその人の心の能力ではないかと思います。

以前、小林正観さんの著書で「見方道」についての内容を拝読したことがあります。小林正観さんは、自分を見方道の家元になりたいと修行を積まれたそうです。「見方を変えればすべては味方になる」というような具合です。具体的には、あらゆるものの見方を「うれしい・たのしい・しあわせ、感謝の心」で観直そうという技法です。

これは先ほどの側面をどう悲観を楽観にするか、それだけではなく全てを必然と転じるときの心の技法のひとつのようにも思います。人生は決して良いことだけではなく悪いこともある、しかしその見方を転じ切ることができるならそれは全て至善になることだということでしょうね。

これらの側面というのは、全体で循環しているものとも言えます。雨が降って嫌な思いをする生き物もいれば、それで救われる生き物もいる。自分にとって都合が悪くても、周りにとっては都合がいいこともある。全体にとっては善いことになっているという見方もあるように私は思うのです。

もしも地球全体で他力が働いている時、善いことにしてくださるのなら諦めてみようと思うものです。もしくは、きっと地球や循環が元にしてくれるのだから安心して委ねてみようという心境のことです。

畢竟、人生は天命があり運命に従い天寿を全うするものです。どうなるか分からなくても、委ねていけばどうにかしてくださるものです。思い通りにいかなくても、その側面では思ってもいないような偉大なことを成し遂げていたり、思ってもいないような幸運や恩恵をいただいているものなのです。

そういう側面を見る力がついてはじめて心の技法を身に付けれているといってもいいのかもしれません。心神一如というか、絶対安心絶対積極の元気のチカラは無我の中にあるように思えてなりません。

日々は自分で見ていること以上のことが本当に沢山発生しています。

見方を大きくすることや、見方を沢山持つことや、見方を換えてみることはすべて心が観ている世界に近づくコツのように私は思います。生き方上手というのは、別に世渡りが上手いことをいうのではなくこの見方が上手な人を言うのでしょう。

子ども達のためにも、どんなことが起きてもそれを全て至善に転じて歩んでいけるような大人のモデルを目指していきたいと思います。

ありがとうございます。

 

 

心の正体と心の素養

人間には「心」というものがあるということは周知の事実でもあります。人に心はあると思いますか、ないと思いますかと聞けばほとんどの人は「心はあると思う」と答えます。

しかしこの「心」というものはではどこにありますかと聞けば、その人たちは胸のあたりであったり頭であったり、身体全体であったりとはっきりしないものです。

この「心」というものの正体、それを見極めようとした方々は過去にも沢山おられました。自分が人間で人間を学ぶ以上、心の問題は避けては通ることはできません。自分自身を知ることは人間を知ることであり、人間であるには心を知る必要があるからです。

この「心」は、子どもをみていても伝わってくるものです。心のままに生きている子ども達は心を素直に発揮します。しかし次第に大人になってくると、その素養にはっきりした差異が出てくるように思います。つまりは「心が強い」かどうかという心の素養に差が出てくるのです。

生きてきて「心」をしっかりと感じられる人に出会うとその人たちには共通の素養が備わっていることに気づきます。それは素直さや正直さ、感謝や謙虚さが心から滲み出ているような素養があります。同じ心があったはずが、なぜこのように心に差が発生していくのか、ここに人間の正体があるように思うのです。

臨床心理学の河合隼雄さんが下記のような言葉を遺されているそうです。

「人間、自分に本当の自信がないと、謙虚になれない。そして人間、自分が本当に強くないと、感謝できない。」

という言葉です。

これは人間、心に自信があれば常に謙虚であるし心が強いと感謝し続けているという捉え方もできる言葉のようにも思います。つまり心の素養がある人こそが謙虚であり感謝ができているということではないかと私は思いました。

そしてこれらはある徳目の実践によって磨かれるように私は思います。一つは「信じる実践」と「御蔭様の実践」です。心の強さというものは、現実に対してそれを破る自分の信念とも言ってもいいかもしれません。そしてさらに心の強さはその人が何を信じているかという自分の信じていることを遣りきるとき強くなるように思います。人が何を信じて生きていくか、それは修行に誓いのかもしれません。しかし、信じることが行であり、行が信じているということですから「信じる実践」をしなければいくら思っていても心は自信を喪失していくでしょう。

もう一つの「御蔭様の実践」は、誰かの目を気にして言う有難うではなく、いつも見守ってくださっている存在に陰ながら感謝し続ける実践のことです。私も御蔭様日記を日々に書いていますが、目に見えないあらゆるものから目に見えるあらゆるもの、そして自分を支えて見守ってくださる全てに有難うを祈る実践です。これは現状での人間関係で何が起ころうとも自分が相手を信じる力に転換されていきます。どれだけ陰ながら周りの人々に感謝の言葉を発しているかが御蔭様に顕れます。そうして心が強くなれば、より先ほどの信じる力にも相乗効果を発揮します。

心の素養というものは、心を高め続ける実践によって磨かれていくものです。

一度きりの人生をどのように解釈し、一度きりの人生をどのように意味づけするかはその人の心ひとつです。その心の素養を高めることは、きっと人生を七色に彩り豊かにしていくことと思います。そしてそういう人の周りにいる人たちもまた、同じような心を持つことが出来、そこから人間の住む世界が次第に変化していくように私は思うのです。

総じて「心」はどんな時も生き方の中にあると思います。生き方の中とは、その人間の一生と呼んでもいいのかもしれません。私が思う心の正体、また心はどこにあるのかと聴かれたら生き方の中にあると言うのかもしれません。

どんな時代であっても、心を学ぶことは大切なことのように思います。日々の内省によって自分の心から学び直すことばかりです。子ども達の安心のためにも、心がどうなっているのかを語れる自分でありたいものです。

玄米との出会い

もともと私が玄米食になったのは、若い頃に続けた生活の不摂生とハードワークで大阪で倒れたことが起因になっています。その頃は、毎晩深夜まで取引先との会食、朝早くから移動や挨拶、営業活動、商談と、一人で何役もこなしていました。車で移動することも多く、よく車中泊をしたものです。その頃の食生活は今思うと悲惨なもので、ほとんどが菓子パン、もしくは栄養剤、時間があればファーストフードかカップラーメンばかりを食べていました。

一年中、休日は休まずに移動日にし、月曜日から日曜日まで休むことなく3年くらいはぶっ通しで働いたように思います。その頃は休みというのは、接待のない土曜日に健康ランドにいくくらいなものでした。営業成績は常にトップでしたから、それを落とさないために人の数倍時間を削り仕事だけに専念していました。仕事以外の優先順位はみんな下という感じです。食事はもちろん、睡眠などは最下層だったように思います。

それがある年末、一日で今年も終わると安心していたのか、突然お客様の前で倒れ込むように意識を失ってしまいました。すぐに日赤病院に搬送されたのですが、ベッドが空いておらず医師からは「極度の過労」という診断を受け自宅療養と言われましたが倒れたのが大阪だったため帰宅しようにも帰宅できないでいたところそのお客様だった方が「一人でビジネスホテルに泊めるのはあまりにも可哀想だ。子どもは今グリーンピースで世界旅行中だから子どもの部屋でいいのなら」と親切にご自宅へ泊めていただいたのです。

そこからも大変で激しい嘔吐や下痢、猛烈な寒気と40度を超える高熱が出ていっそ死んだ方が楽じゃないかと思ったほどで、病院からは即入院で2週間は点滴をとあったくらいでしたから食べるものなどは一切見たくないほどの状態でした。

しかしそのお客様が私にまず梅肉エキスを煎じたものをもってきて「これを飲めば吐き気が止まる」と言われ、泊めていただいているのに断れないと必死に飲んだら、今度は玄米粥をつくってくれて「これを無理してでも食べなさい」というではなですか。その時、親切を受けたのはいいが誤った判断をしてしまったと後悔したのですがこれも善意であったためちょっとずつ食べてみました。

その後、また意識を失い2時間ほどくらい眠ると驚くほど体調がよくなっていました。そして枕元には「きっと夜中にお腹がすくから」と一筆添えられ玄米おむすびを4個ほど置いてありました。

嘔吐下痢が酷かったのでまさかと思いましたが、その後時間が経つにつれお腹が空いてきて玄米おむすびを一個、また一個と食べていると元気になってきました。その時の美味しかった玄米の味は今でも憶えています。

私の玄米との出会いは、あの時でした。

あれから色々ありましたが、今では玄米食は日々のものになり今でもその玄米に助けられています。かの食育の祖、石塚左玄も玄米食の大切さを説いています。その石塚左玄も自分自身の持病との葛藤の末、「食養生」を産み出し、それを統合する「無双原理」ということをこの世に遺しました。

玄米は無双原理の中心にあるものです。

得難い御縁というものは、一見自分には不幸に見え、悲惨な出来事のような中であっても、その中に天の声というか手を差し伸べてくださるものに出会うようなものなのかもしれません。

あの出会いがなければ、今の自分はなく、あの食事がなければ今の自分の食はない。玄米との初心は、いつもあの時食べた玄米おむすびの味の中です。

子ども達のためにも、自分のカラダで感じたこと、体験したことは嘘がありませんからそれを多くの同じように困っている人たちへと伝えて世の中を元気にしていきたいと思います。

身体の声

体調を崩して数日経ってみると色々と身体の声がはっきり聴こえはじめてきます。人間はつい当たり前に存在するものについてのことはまるで自分のものの一部にもなったかのように感謝を忘れて大切にしなくなりますが、何かあったり失ってみたりするとその有難さや大切さに気づくように思います。

聴くというのは、まず自分自身の身体の声を聴き、そののち心の声を聴けるようになることが肝要で最初から発する声に耳を傾けようとはしないその姿勢にこそ問題があるように思います。

養生法の一つに、石塚左玄の「食養」というものがあります。これは「食は本なり、体は末なり、心はまたその末なり」と、心身の病気の原因は食にあるとし人の心を清浄にするには血液を清浄に、そして血液を清浄にするには食物を清浄にすることであるとも言いました。

日頃どんな食生活をしているか、そのものが何よりも養生法において重要であるといいうことです。その日頃の食生活が乱れ、バランスを崩すような生活を続けていていざ体調を崩して民間療法をやったとしてもそれでは手遅れなことがほとんどです。

なぜなら民間療法はそもそも自然に沿った生き方をしている人たちが病気の時に取り組んだ治癒法であり、今の時代のように農薬や合成添加物、スピードや効率で栄養過多になって偏った食生活の人たちが今更やってもすぐに効果が出ることは考えにくいからです。

民間療法をやるのなら、そもそもの日頃の食生活や生き方そのものから改善しなければその民間療法も活きてこないということです。如何に今の時代の食が乱れているか、昨今の世の中を見渡せば観えてくるものです。

対処療法というものは、どうしようもなくなった問題を「これよりもマシ」という比較の中で行われていきます。本来の問題とは向き合わず受け止めず、そこを只管避けて通ろうとする、変わらないのは自分自身なのが対処療法です。しかし根源治癒の方は、これよりもマシという欲望を断ち切ったのち、日頃から丁寧に生き方の方から変えていくものです。自分が間違っていることに気づいたらすぐに変わる、それが根源治癒です。

治癒というのは、自然に直るということです。

自然に直るには、そもそも人間は何が自然だったかというものを深める必要がります。その時、石塚左玄はこういうことも言っています。「人類穀物動物論」「一物全体」「身土不二」「陰陽調和」など、本来人類がどういう食べ方をしてきたかをとことん突き詰めているのです。何をもって自然かといえば、そのはじまりを知ることです。

そしてこの石塚左玄には、「食養道歌」というものがあります。二宮尊徳にも道歌がありますが、その道を深めた人たちの言葉は心に沁みます。

「臼歯持つ人は粒食う動物よ。肉や野菜は心して食え」
「円心ある穀類多く食ひなば、智仁勇義の道に富むなり」
「動かずば動かぬものをおもに食い、動き動かば動くもの食え」
「海国の魚と塩とに富む土地は、山や畑に生ふるもの食え」
「大陸の麦と薯とに育つ人。勤めて食えよ肉や卵を」
「塩風の温味ありける火の本を、さます薬は野菜なりけり」
「遠海の北と雪との水国は寒さ凌ぎに肉を食うべし」
「潮風の吹き入る土地は身の為に食ふて欲しい豆と野菜を」
「山里は塩の漬物食うが好し、肉と魚との代用するなり」
「牛と魚鳥や玉子とかはれども海鹽と同じものとこそ知れ」
「魚や塩得るによしなき山里は、鳥獣の肉を食うべし」
「塩風に吹かるる土地の人々は、夏気となるや殊に菜食え」
「飯食うて、程よく肉を嗜まば、身も壮健で智も才もあり」
「肴屋はさかなのように動けども、八百屋の如く静かではなし」
「春苦味、夏は酢の物、秋辛味、冬は脂肪と合点して食え」
「献立は海の品なら山のもの。臭い物には野菜合わせよ」

これれは、すべてほどほど、中庸であることが説かれているように思います。足るを知り、ほどほどの善さを自覚するものは健やかなりということでしょう。今の時代、誘惑ばかりがありますから己に打ち克つにはやはり自分自身との対話を静かに行っていくしかないのではないかと今回の病を得て実感しました。

「あらゆる静寂に耳を凝らし、深淵から届く声に耳を傾け、その澄んだ音を聴け」(藍杜静海)

今年も最初から転じる出来事ばかりが続いていますが、学び直しがはじまっていることに感謝し、体験させていただけることの御蔭様に恩返しをしていきたいと思います。

 

民間療法の本質

今回、民間療法を試していく中で一つの発見がありました。この民間療法は日頃取り組んでいる自然農と同じで、もともと備わっている自然治癒を援助し支えるやり方で行われていたということです。

現在の西洋の薬は確かに緊急時には必要ですが、病原体にだけに対してだけではなく同時に身体にも影響を加えてしまいます。副作用があるということは、病原体を攻撃するために多少の犠牲をはらっても手段を選ばずに薬で殲滅させようという考え方です。

それに対して古来から伝わる先祖たちが伝承してきた民間療法は、もともと身体には自然治癒が備わっているためそれをどう発揮できるように手伝うか、また援護するかという観点で薬を用いています。そのため副作用はありません。

例えば、喉の痛みについては「はちみつ大根飴」や「緑茶のうがい」、「生姜茶」の療法を用いましたがこれは扁桃腺で自助免疫が外部からのウイルスや細菌の侵入を防ごうと攻防を繰り広げています。その時、はちみつが抗酸化作用で殺菌を助け、緑茶のカテキンが同じように殺菌をし、大根が炎症や痛みを和らげ、生姜が体温を中から暖め免疫が活動しやすくなるようにと援護します。

つまり古来の薬はすべてにおいて自然治癒を「援護」するものであり、病原体を倒すためのものではないということです。これは人間にはそもそも自然治癒が備わっていると信じられており、その自然治癒が働きやすいようにと配慮しながら暮らしてきたのです。

これは自然農も同じで、作物その物のもつ育つチカラを邪魔しません。どうしても外敵に負けそうな時だけ、援護します。するともともと持っている元気が出てきて、逆境を撥ね退けて負けそうな時よりもずっと強く逞しく活き活きと育っていきます。その生きるチカラ、その元気溌溂さを見るとき、実は逆境は善いものだと信じさせるものです。

人間の身体も同じくもともと持っている元気がでなくなったのは自分の自然治癒力を信じず、西洋の薬に頼りますます元気がなくなってしまっているように思います。これは薬だけに限った話ではありません。何でも目に見えて効果がありそうなものに飛びつき、本来の自分自身の中にあるものを信じようとしなくなっているようにも思います。自分の免疫で治すことは確かに信じるチカラが必要であり、治るかどうかが分からない状態で苦しみが続くのですから調子が悪いとより不安になるのは仕方がないことなのかもしれません。

しかし見方を転じてみれば病気になってしまった原因を見つめるよい機会でもあり、苦しみを受け止めてそれを民間療法を用いて恢復ができるのなら自然に身体は以前よりも益して元気が漲ってくるように思います。

最後に整理すると、自然に沿って治そうとするものが民間療法であり人工的に意図的に治そうとするものが現代医療といっていいかもしれません。先祖たちの伝承された民間療法を試していたら、先祖たちが如何に自然に寄り添った暮らしを永い期間ずっと行ってきたか、そしてそれが如何に優れて素晴らしかったものなのかを身体で感じます。

自然を征服することができても果たしてそれが幸せなのかどうかは疑問です。自然物の一つとしての人間なのは自明の理なのですから、自然物のチカラが自分に具わっていることを自覚することの方が信じるチカラを得て自然一体に安心できるように思います。

子ども達のためにも、自然農と同じく民間療法としてのものもできる限り掘り起し探し出し少しでも多くのものを伝承していけるよう生き方を遺していきたいと思います。

 

民間療法の智慧

先日から風邪をひいてしまい喉が腫れ高熱が出たために日頃、社内で実践しているはちみつ大根飴をつくって自分の体験で効果を試しています。このはちみつ大根飴は、江戸時代頃からあった民間療法だそうでもともと大根の持つ消炎効果とはちみつの持つ抗酸化作用を組み合わせたものです。

大根には、イソチオシアネートという消炎のための物質、そして酵素としてアミラーゼ、プロテアーゼ、リパーゼなどがあり消化を助けることが分かっています。またはちみつについては紀元前から人間は薬用として使われていたことが分かっています。具体的には、はちみつ中に存在するグルコースオキシダーゼという酵素が、はちみつの表面に触れている空気中の酸素に働き過酸化水素という物質をつくります。それが強烈な殺菌効果と、消炎効果があるようです。

子どもの咳止めには「はちみつ」をというくらい、昔から重宝されてきたようです。

これらは民間療法といって、古くから民間の生活の中で伝承されてきた智慧ですが自然に沿って暮らしてきた先祖たちが早くから大根とはちみつの効果を知って、生活の智慧にしてきたのです。

昔の人たちは観察力がとても優れていました。それはきっと自然を観察して自然から学んでいたからに他なりません。文字や言葉で学んでいるのではなく、自然そのものをよく観察してそこから智慧を生活に取り込んでいったのです。

今の時代のように、何でも便利に人工的なもので囲まれた都市型の生活をしていたらそういう観察力は減退していくようにも思います。本来の観察力は、自然によって磨かれるものだからです。

天然自然物を活用することは、自分自身の感性が磨かれることになります。

これらの民間療法の効果は、誰にでも覿面に効果があるかどうかはわかりませんがこれらを実践することによって先祖たちが如何に今の自分たちよりも自然に寄り添い優れた観察力を発揮したかがはっきりします。

先祖の智慧を伝承することは、温故知新の生き方を学び直すことにもつながります。

この機会もまた有難い経験にして、子ども達へ伝承していきたいと思います。

準備不足の本質

今の時代は便利になり、衛星から雲の様子や天気の状態などを分析し天気予報を配信しているとも言えます。今日明日から、一週間先くらいまではそれらの動きを見ながら予測することができています。

しかしこの予測が必要なのは、近くにあるイベントの準備などで用いられますが農家や漁師、その他、自然を相手に働く人たちにとってはここ一年から数か月先まで予測して準備をする必要があります。

自然農や炭実践をしてみて気づくのが、かなり早い段階から準備しておかなければ本当の意味で自然を予測することができないということです。例えば、作物であれば昨年の状況や田畑に生えている雑草、虫たちの状況、動物の様子を観察しながら蒔き時や場所のことを考えていきます。また炭であれば、薪を乾燥させるのに3か月から1年ほどかかります。

本来の未来予測というものは、予測が分かるから準備をしなくていいではなく準備することが予測になっているということです。この先、どうなるのかをある程度想定し、そのためにできうる準備は全て行うというものです。これは人間の持っている本能の力をよく使わなければなりません。前者のものは本能を使わなくても知識があれば使えます。

一見、知識で行うものの方が優れているように感じるものですが目先のことばかりに苦慮しては対処療法ばかりするのが果たして本当に便利かということです。以前、オランダに訪問したとき、コンビニが少ないということで不便だと思っていたらオランダ人にとってはコンビニは準備して買おうとしなくなるから私たちにとっては不便だということであまり増やさないと聞いたことがあります。

似たような話でブータンでは化学肥料をほとんど使わない「世界最先端の環境立国」と言われますが、これも化学肥料の購入のために他国に依存する方が不自然だという考えを持っているからです。

実際に、時計を外してみたり、天気予報に頼らないで、自分の感覚を使ってみるととても便利なものでその御蔭で自動的に様々なことを直感的に理解して準備が進みます。そのあとに知識を使えばより正確に精度の高い予測ができるようになります。

人間のもともと持っているチカラを使わないのを便利というのは、相当頭の怠け癖に刷り込まれているということかもしれません。時間がかかることを優先したり、手間暇をかけることを大切にしたり、面倒くさいということでもやってみると自ずから自分の本能や感性が働いていることに気づくものです。

そして自然を相手にするのなら、人間の心を相手にするのなら、それは敢えて日本では不便というものを選んだり、非効率というものを味わったり、皆が捨てていくものを拾ったりすることで自然の本能や感覚的直感は研ぎ澄まされるように思います。

人の心に関係する仕事も、同じく自然の一部です。心は頭ではないのだから、真心や思いやりというものも敢えて自らが苦労を背負い込み、自分を後回しにして利他に人事を盡していくことで自然と同じように予測ができ準備に専念できるものです。

準備不足というのは今の時代では畢竟、頭だけで考えて計算することであり、準備万端というのは心を遣って頭で考えることを言うのでしょう。

自然から学ぶためには、自然がどうなっているのかを知識ではなく体験で身に着けるしかありません。そしてそれは日本の伝統技術や伝統文化の中にも反映されていますから、そこから学び直すことも大切なことのように思います。

準備でバタバタしないように、丁寧に準備を続けていきたいと思います。