準備不足の本質

今の時代は便利になり、衛星から雲の様子や天気の状態などを分析し天気予報を配信しているとも言えます。今日明日から、一週間先くらいまではそれらの動きを見ながら予測することができています。

しかしこの予測が必要なのは、近くにあるイベントの準備などで用いられますが農家や漁師、その他、自然を相手に働く人たちにとってはここ一年から数か月先まで予測して準備をする必要があります。

自然農や炭実践をしてみて気づくのが、かなり早い段階から準備しておかなければ本当の意味で自然を予測することができないということです。例えば、作物であれば昨年の状況や田畑に生えている雑草、虫たちの状況、動物の様子を観察しながら蒔き時や場所のことを考えていきます。また炭であれば、薪を乾燥させるのに3か月から1年ほどかかります。

本来の未来予測というものは、予測が分かるから準備をしなくていいではなく準備することが予測になっているということです。この先、どうなるのかをある程度想定し、そのためにできうる準備は全て行うというものです。これは人間の持っている本能の力をよく使わなければなりません。前者のものは本能を使わなくても知識があれば使えます。

一見、知識で行うものの方が優れているように感じるものですが目先のことばかりに苦慮しては対処療法ばかりするのが果たして本当に便利かということです。以前、オランダに訪問したとき、コンビニが少ないということで不便だと思っていたらオランダ人にとってはコンビニは準備して買おうとしなくなるから私たちにとっては不便だということであまり増やさないと聞いたことがあります。

似たような話でブータンでは化学肥料をほとんど使わない「世界最先端の環境立国」と言われますが、これも化学肥料の購入のために他国に依存する方が不自然だという考えを持っているからです。

実際に、時計を外してみたり、天気予報に頼らないで、自分の感覚を使ってみるととても便利なものでその御蔭で自動的に様々なことを直感的に理解して準備が進みます。そのあとに知識を使えばより正確に精度の高い予測ができるようになります。

人間のもともと持っているチカラを使わないのを便利というのは、相当頭の怠け癖に刷り込まれているということかもしれません。時間がかかることを優先したり、手間暇をかけることを大切にしたり、面倒くさいということでもやってみると自ずから自分の本能や感性が働いていることに気づくものです。

そして自然を相手にするのなら、人間の心を相手にするのなら、それは敢えて日本では不便というものを選んだり、非効率というものを味わったり、皆が捨てていくものを拾ったりすることで自然の本能や感覚的直感は研ぎ澄まされるように思います。

人の心に関係する仕事も、同じく自然の一部です。心は頭ではないのだから、真心や思いやりというものも敢えて自らが苦労を背負い込み、自分を後回しにして利他に人事を盡していくことで自然と同じように予測ができ準備に専念できるものです。

準備不足というのは今の時代では畢竟、頭だけで考えて計算することであり、準備万端というのは心を遣って頭で考えることを言うのでしょう。

自然から学ぶためには、自然がどうなっているのかを知識ではなく体験で身に着けるしかありません。そしてそれは日本の伝統技術や伝統文化の中にも反映されていますから、そこから学び直すことも大切なことのように思います。

準備でバタバタしないように、丁寧に準備を続けていきたいと思います。