体調を崩して数日経ってみると色々と身体の声がはっきり聴こえはじめてきます。人間はつい当たり前に存在するものについてのことはまるで自分のものの一部にもなったかのように感謝を忘れて大切にしなくなりますが、何かあったり失ってみたりするとその有難さや大切さに気づくように思います。
聴くというのは、まず自分自身の身体の声を聴き、そののち心の声を聴けるようになることが肝要で最初から発する声に耳を傾けようとはしないその姿勢にこそ問題があるように思います。
養生法の一つに、石塚左玄の「食養」というものがあります。これは「食は本なり、体は末なり、心はまたその末なり」と、心身の病気の原因は食にあるとし人の心を清浄にするには血液を清浄に、そして血液を清浄にするには食物を清浄にすることであるとも言いました。
日頃どんな食生活をしているか、そのものが何よりも養生法において重要であるといいうことです。その日頃の食生活が乱れ、バランスを崩すような生活を続けていていざ体調を崩して民間療法をやったとしてもそれでは手遅れなことがほとんどです。
なぜなら民間療法はそもそも自然に沿った生き方をしている人たちが病気の時に取り組んだ治癒法であり、今の時代のように農薬や合成添加物、スピードや効率で栄養過多になって偏った食生活の人たちが今更やってもすぐに効果が出ることは考えにくいからです。
民間療法をやるのなら、そもそもの日頃の食生活や生き方そのものから改善しなければその民間療法も活きてこないということです。如何に今の時代の食が乱れているか、昨今の世の中を見渡せば観えてくるものです。
対処療法というものは、どうしようもなくなった問題を「これよりもマシ」という比較の中で行われていきます。本来の問題とは向き合わず受け止めず、そこを只管避けて通ろうとする、変わらないのは自分自身なのが対処療法です。しかし根源治癒の方は、これよりもマシという欲望を断ち切ったのち、日頃から丁寧に生き方の方から変えていくものです。自分が間違っていることに気づいたらすぐに変わる、それが根源治癒です。
治癒というのは、自然に直るということです。
自然に直るには、そもそも人間は何が自然だったかというものを深める必要がります。その時、石塚左玄はこういうことも言っています。「人類穀物動物論」「一物全体」「身土不二」「陰陽調和」など、本来人類がどういう食べ方をしてきたかをとことん突き詰めているのです。何をもって自然かといえば、そのはじまりを知ることです。
そしてこの石塚左玄には、「食養道歌」というものがあります。二宮尊徳にも道歌がありますが、その道を深めた人たちの言葉は心に沁みます。
「臼歯持つ人は粒食う動物よ。肉や野菜は心して食え」
「円心ある穀類多く食ひなば、智仁勇義の道に富むなり」
「動かずば動かぬものをおもに食い、動き動かば動くもの食え」
「海国の魚と塩とに富む土地は、山や畑に生ふるもの食え」
「大陸の麦と薯とに育つ人。勤めて食えよ肉や卵を」
「塩風の温味ありける火の本を、さます薬は野菜なりけり」
「遠海の北と雪との水国は寒さ凌ぎに肉を食うべし」
「潮風の吹き入る土地は身の為に食ふて欲しい豆と野菜を」
「山里は塩の漬物食うが好し、肉と魚との代用するなり」
「牛と魚鳥や玉子とかはれども海鹽と同じものとこそ知れ」
「魚や塩得るによしなき山里は、鳥獣の肉を食うべし」
「塩風に吹かるる土地の人々は、夏気となるや殊に菜食え」
「飯食うて、程よく肉を嗜まば、身も壮健で智も才もあり」
「肴屋はさかなのように動けども、八百屋の如く静かではなし」
「春苦味、夏は酢の物、秋辛味、冬は脂肪と合点して食え」
「献立は海の品なら山のもの。臭い物には野菜合わせよ」
これれは、すべてほどほど、中庸であることが説かれているように思います。足るを知り、ほどほどの善さを自覚するものは健やかなりということでしょう。今の時代、誘惑ばかりがありますから己に打ち克つにはやはり自分自身との対話を静かに行っていくしかないのではないかと今回の病を得て実感しました。
「あらゆる静寂に耳を凝らし、深淵から届く声に耳を傾け、その澄んだ音を聴け」(藍杜静海)
今年も最初から転じる出来事ばかりが続いていますが、学び直しがはじまっていることに感謝し、体験させていただけることの御蔭様に恩返しをしていきたいと思います。