人間には「心」というものがあるということは周知の事実でもあります。人に心はあると思いますか、ないと思いますかと聞けばほとんどの人は「心はあると思う」と答えます。
しかしこの「心」というものはではどこにありますかと聞けば、その人たちは胸のあたりであったり頭であったり、身体全体であったりとはっきりしないものです。
この「心」というものの正体、それを見極めようとした方々は過去にも沢山おられました。自分が人間で人間を学ぶ以上、心の問題は避けては通ることはできません。自分自身を知ることは人間を知ることであり、人間であるには心を知る必要があるからです。
この「心」は、子どもをみていても伝わってくるものです。心のままに生きている子ども達は心を素直に発揮します。しかし次第に大人になってくると、その素養にはっきりした差異が出てくるように思います。つまりは「心が強い」かどうかという心の素養に差が出てくるのです。
生きてきて「心」をしっかりと感じられる人に出会うとその人たちには共通の素養が備わっていることに気づきます。それは素直さや正直さ、感謝や謙虚さが心から滲み出ているような素養があります。同じ心があったはずが、なぜこのように心に差が発生していくのか、ここに人間の正体があるように思うのです。
臨床心理学の河合隼雄さんが下記のような言葉を遺されているそうです。
「人間、自分に本当の自信がないと、謙虚になれない。そして人間、自分が本当に強くないと、感謝できない。」
という言葉です。
これは人間、心に自信があれば常に謙虚であるし心が強いと感謝し続けているという捉え方もできる言葉のようにも思います。つまり心の素養がある人こそが謙虚であり感謝ができているということではないかと私は思いました。
そしてこれらはある徳目の実践によって磨かれるように私は思います。一つは「信じる実践」と「御蔭様の実践」です。心の強さというものは、現実に対してそれを破る自分の信念とも言ってもいいかもしれません。そしてさらに心の強さはその人が何を信じているかという自分の信じていることを遣りきるとき強くなるように思います。人が何を信じて生きていくか、それは修行に誓いのかもしれません。しかし、信じることが行であり、行が信じているということですから「信じる実践」をしなければいくら思っていても心は自信を喪失していくでしょう。
もう一つの「御蔭様の実践」は、誰かの目を気にして言う有難うではなく、いつも見守ってくださっている存在に陰ながら感謝し続ける実践のことです。私も御蔭様日記を日々に書いていますが、目に見えないあらゆるものから目に見えるあらゆるもの、そして自分を支えて見守ってくださる全てに有難うを祈る実践です。これは現状での人間関係で何が起ころうとも自分が相手を信じる力に転換されていきます。どれだけ陰ながら周りの人々に感謝の言葉を発しているかが御蔭様に顕れます。そうして心が強くなれば、より先ほどの信じる力にも相乗効果を発揮します。
心の素養というものは、心を高め続ける実践によって磨かれていくものです。
一度きりの人生をどのように解釈し、一度きりの人生をどのように意味づけするかはその人の心ひとつです。その心の素養を高めることは、きっと人生を七色に彩り豊かにしていくことと思います。そしてそういう人の周りにいる人たちもまた、同じような心を持つことが出来、そこから人間の住む世界が次第に変化していくように私は思うのです。
総じて「心」はどんな時も生き方の中にあると思います。生き方の中とは、その人間の一生と呼んでもいいのかもしれません。私が思う心の正体、また心はどこにあるのかと聴かれたら生き方の中にあると言うのかもしれません。
どんな時代であっても、心を学ぶことは大切なことのように思います。日々の内省によって自分の心から学び直すことばかりです。子ども達の安心のためにも、心がどうなっているのかを語れる自分でありたいものです。