昨日、三重県松阪にある月山義高刃物店にて藤原将志三代目から研ぎについての講習を受ける御縁をいただきました。昨年から「磨く」ことをテーマに、深めていると鐵に出会い、鐵から砂鉄に出会い、砂鉄から砥石に出会い、そして研磨に辿りつきました。
研磨という世界は感覚の世界であり、この感覚の世界をどれだけ大切にするかに由ります。日頃から切れ味知り、観る目を凝らしてミクロの世界を感じることやマクロの世界を味わうことは、自分自身の感覚を研ぎ澄ませていくものです。
今回の体験でもかつて日本人たちが如何に鋭敏な感覚を日頃から持っていたかというのを実感しました。これらの日本の技術が廃れていくのは本当に辛い思いがしますが、次世代、もしくはさらに先の世代が必要としたときその技術がこの世になかったではあまりにも悲惨なことになります。
だからこそ今を生きる私たちは、ちゃんと子ども達や次世代のことを考えた志業を行う必要があるのです。今回の研ぎでもまた、その文化の一端に触れる機会になり、これら実践していく上で何よりも大切な志をいただいたような気がします。
物はモノではなく、志があります。誰がどんな思いをもってそれを造り、誰がどんな祈りをもってそれをつなぐか。つまり物はその誰がが語るから、物語なのです。たたら製鐵を遺し鍛冶をする刀匠、そしてミクロの世界を科学し研ぎの真髄を語り続け研鑽を続ける研ぎ師、そのお二人の姿から大切なことを学び直した気がします。
研ぎについては、「切れ味」という世界があることを知りました。
つまりは、物は切れ味次第で実際の素材の味も変わり、持ち時間も変わってくるということです。この切れ味が分かってくることが、何よりも最初の感覚の世界であり、これが観えるか観えないかが最初のコツのように思いました。
切れ味とは辞書に由れば、「刃物の切れ具合、才能・技能の鋭さ」とあります。他には「切れ味が良すぎる」や「切れ味が冴えた」という言葉もあります。そして私自身も切れ味については学んでいる途上で、如何に本質にシンプルに辿りつくかを思う時、そしてそれが最も正確無比で余計な言葉がそぎ落とされたとき、切れ味を思います。
切れ味については最後に印象深いことを仰っていました。
「善い研ぎ師であればあるほど、研ぎすぎることがない。」
だからこそ天然砥石を用いるそうです。これは自然の世界と同じであり、天然であればあるほど我が抜けているということです。天然の持つ砥石に磨かれるというのは、その調整力を身に着けるということではないかと直感しました。
早速実践をはじめ、境地を得てみたいと思います。