実地実行を尊ぶ~中庸~

物事は文字では書けても実践実行することは簡単ではありません。どんなに文字を巧みに利用してさも真実を知っているように教えたとしても、それを活かせないのでは学んでいないのと同じだからです。

二宮尊徳は、文字を重んじず、実行を尊びました。それは実行しなければ何も変わらず、実践しなければ何も積み上がっていくことがないからです。

その二宮尊徳の夜話を弟子が書き取った話の中にこういう話が遺っています。

『ある儒学者が尊徳先生に言った。「孟子はやさしいが、中庸は難しい」と。尊徳先生はこうおっしゃった。「私は、文字の事はしらないが、これを実地正業に移して考える時は、孟子は難しく、中庸はやさしい。なぜかといえば、孟子の時代には、道は行われず、異端の説が盛んであった。だからその弁明をするため、道を開いたのだ。
したがって仁義を説いて、結局仁義そのものの実践からは遠ざかっている。君らが孟子をやさしいといって孟子を好むのは、自分の心に合うためである。君らが学問する心は、仁義を行おうために学んでいるのではない、道を実践するために修行しているのではない。ただ書物上の議論に勝ちさえすれば、それだけで学問の道は足りるとしている。議論が達者で、人を言いまかせさえすれば、それだけで儒者の勤めは果たしたと思っている。聖人の道というものが、どうしてそのようなものであろうか。聖人の道は仁を勤めることにある。五倫五常を行うにある。どうして弁舌をもって人に勝つことを道としようか。人を言いまかすことをもって勤めとしようか。孟子はすなわちこれである。このようなことを聖人の道とする時ははなはだ難道である。容易に実行しがたい。だから孟子は難しいというのだ。』

学問のための学問ではなく、実地実行の学問の方が易しいと言います。孟子は、言葉によって人の道を正した故に難しく、本来の聖人の道は解釈云々よりも難しい道なのだと言います。そして続けてこう話します。

『中庸は通常平易の道であって、 一歩より二歩、三歩と行くように、近きより遠きに及んで、低いとことから高いところに登り、小より大に至る道であって、誠に行いやすい。たとえば100石の収入の者が、勤倹を勤めて、50石で暮し、50石を譲って、国益を勤めることは、誠に行いやすい。愚夫愚婦にもできない事はない。この道を行えば、学ばないでも、仁であり、義である。忠であり、孝である。神の道、聖人の道が一挙に行われるであろう。いたって行いやすい道である。だから中庸というのだ。私が人に教えるに、私の道は分限を守るをもって本となし、分内を譲るをもって仁となすと教えている。なんと中庸であって行いやすい道ではないか。』

それに対して中庸は誰でも実地実行できる道を説いているといいます。自ら分度を定めて、分度内を守りそして分度外を譲ることが思いやりだと話せばいい。それを実行すれば学問のために学問をしなくても、そこに思いやりや真心、忠義や孝行がある。それが聖人たちが実践した道であり、誰にでもすぐに取り組むことが出来るものだから中庸は易しい道であると言います。

実地実行しないで深めていく学問と、実際に実地実行することで道になる学問。本来の学問は、道のために存在するものであり、学問のために存在するものではありません。二宮尊徳はこう喝破します。

「学者は書物を実にくわしく講義するが、活用することを知らないで、いたずらに仁はうんぬん、義はうんぬんといっている。だから世の中の役に立たない。ただの本読みで、こじき坊主が経を読むのと同じだ。」と。

巷ではリーダー論など、自分が実地実行しないのに研修会などでは学者や立場のある人たちが勉強不足だと非難したりします。しかし、自分が実地実行していないのでは道は善く拓けていくことはなく、結局はそのリーダー論も活かせないものをただ教えていることになっているかもしれません。

もちろんそれぞれに役割があり、現場で実行する人があってその教えを広める人があっていいと思いますが、その役割を全部学識だけでやろうとするのは本末転倒のように私は思います。もっと現場の実践者と協力をし、御互いが何を実地実行していくことが本来の道になるのかを協力していくことが本質的なリーダーを育成していくようにも思います。

世の中の役に立つ学問、そして道を弘めるために私も知識学識の慢心を戒め、実地実行を強めて一つ一つ丹精を籠めて精進していきたいと思います。