先日、自然農園の青梗菜を収穫してお客様に持参しましたがとても美味しいと喜んでいただきました。この青梗菜は形こそスーパーで売られているものよりも小ぶりですが、どの方が食べても美味しいと喜ばれます。
この美味しいとは本当はどういうことか、改めて深めてみます。
自然農園の野菜は、雑草と一緒に混植されているものです。種を蒔く時期と最初に育つ時期だけは丁寧に見守りますが、あとは自然に任せて育つのを待っています。育つ場合もあれば、大きくなれずにそのまま周りの雑草たちの方が強く抑え込まれて育たない場合もあります。しかし周りの雑草と一緒に育ち、混植されても育ってくれた野菜はまるで野草のような滋味があります。食べてすぐにわかるのは、自然の中で育ったと感じるあの野生の味です。
今の時代は、農薬や肥料、もしくは様々な農業技術をつかって甘くしたり辛くしたり調整して育てています。人間の都合にあわせてそのものを造っていますがそこには野生の味はありません。すべて加工されてるものです。お菓子もそうですし、料理もそう、素材の味ではなく料理の味です。
しかし自然の中にあるものはすべて野生の味があります。例えば、海で獲れた天然魚や、山で獲れた山菜などはすぐに食べれば美味しいと感じます。この美味しさは加工された美味しいではなく、野生のままだから美味しいという感覚なのです。
本来、人間は美味しいという感覚を持っています。
これは舌さき三寸で味わう味とは異なり、いのちそのままの味を味わう味を知っているということです。これは舌ではなくカラダ全体で感じる自然を味わう器官が備わっていることの証明であり、そこで感じる「美味しい」はあるがままであるいのちや個性を歓んでいるのです。
できる限り、野生の味を味わえるように昔の道具たちは造られたとも言えます。今、使っている日本刀包丁や、砂鉄の鍋、羽釜、陶器、炭などもそのものの素材のいのちを壊さないような道具たちです。その道具たちの持つ偉大さは、いのちを壊さないままに料理できることです。
ここから考えてみると、やはり本物の美味しさというのは「野生の味」であることに気づきます。そしてその野生の味は、そのままであることを邪魔しないことによります。私たちが社業にしている「子どもらしく子どもの発達を邪魔しない」というのは、この野生の味を育てていくということです。
自然農も同じく、美しい暮らしも、すべては子ども第一義の理念を実践していくのと何も変わりません。そのままであることの美しさ、あるままであることの深い味わい、こういうものを私は「美味しい」と定義するのです。人間の都合で教育され、人間の都合で加工され、あるがままであれないものが果たして「善いもの」なのかと思います。料理すればするほどにまずくなったでは本末転倒です。
もちろん加工がよくないといっているのではなく愛情や真心を籠めたかどうかもいのちは感じますからそれもまた滋味を味わう一つです。そしてこの愛情や真心こそが野生の見守り、自然と同じ心の姿です。
野生の感性は自然から遠ざかることで離れていきます。私たちは自然に磨かれていのちは高まっていきますから、自然の姿、あるがままでいるのは美しく味わいのある人生を送れるように思います。あるがままでいい、そのままでいいと丸ごと個性を認めるような環境はそのものを野生のままに育てていきます。野生の味の美味しさはいのちの仕合せなのです。
引き続き、子どもの発達を邪魔しないような道を伝え弘めていきたいと思います。