佐藤初女さんの透明な生き方は、多くの人たちに日本古来の暮らしを考え直す機会になりました。本来の暮らしは何か、何をもって暮らしというのか、そのおむすびを握る丁寧な所作、万物をもったいないと活かそうとするいのちの扱い方を観て暮らしの本質を直感した人はとても多かったように思います。
今の時代はスピードや効率を優先し、大事にしてきた日本の心が次第に失われているようにも思います。何でも粗雑粗末にし、荒っぽく薄っぺらい行動をしていのちを傷つける人が増えたように思います。何でもいのちをただのモノのように雑に扱い周りを傷つけても平気な人が増えたように思います。そしてそのただのモノと同じように扱われていることにマヒし、周りにも同じように身勝手に利己的にふるまい乱暴であることにも気づかない人が増えたように思います。不親切や思いやりのないことがあたりまえになってしまうことで心は貧しくなり、そしてその人生もまた独りよがりのさみしいものになっていくようにも思います。
本来、日本人は心が豊かな民族でありそれは日々の丁寧な暮らし、もったいない心と共にあったように思います。初女さんの後ろ姿には、連綿と受け継ぎ大切に重んじられた大和心を感じます。その初女さんはこの粗雑粗末にかかわる話にメンドクサイという言葉が如何に美しくないかということをこう語ります。
『私、“面倒くさい”っていうのがいちばんいやなんです。ある線までは誰でもやること。そこを一歩越えるか越えないかで、人の心に響いたり響かなかったりすると思うので、このへんでいいだろうというところを一歩、もう一歩越えて。ですからお手伝いいただいて、「面倒くさいからこのくらいでいいんじゃない」っていわれると、とても寂しく感じるのです。』
もう少しだけのところに、利己的が利他的に転じる境目があるように思います。いのちの移し替えと同じく、透明な心に移るかどうかの極みで一歩が越えられない。この一歩こそ、実践の一歩であり、自分の決心した生き方を貫くかどうかの信念や志であろうと思います。
これは特別な大きなことをしなくても日々に大切にしたいと決めた生き方を優先し、自我に打ち克ちもしも理念を実践するかどうかのことです。人は思いはしても言葉にしても実際にその優先した理念を「実行」することが出来ないものです。敢えて実行すること、言行一致することこそが実践であり、その実践を行う心に「面倒だから」という思いは一切入ることはありません。
結局、独りよがりというのは、利己的であるということです。みんなが自分のことしか考えず、自分のことばかりを優先してしまえばそこに思いやりはありません。思いやりのある社會は、周りの人のことを配慮し、そのために「独りでも誰も見ていなくても自分の生き方や暮らしを周りのために粗雑粗末をしまい」という生き方を優先することです。丁寧な所作や丹精を籠めた行動は、その真心の為す業であろうと思います。また初女さんはこのようにも言います。
『何かにつけて、自分と言うものが先になっている。実践ということまでいかないで
考えるということに留まっている。言葉はたいへんに貴重なものだけれども言葉を越えた行動が伝えてくれることが非常に大きいのです。だから、私は、なるべく言葉を越えた行動をしたいと思っている、と。』
言葉を越えた行動をするというのは、「実践を優先する」ということであろうと思います。本当に思っているのなら、本当にそうしたいのなら、「実践」することだと仰っているように私は思います。私の定義している実践も初女さんと同じく、言うのならまず実践しましょうということです。そしてこの実践は全て身近な小さな行動で実現できるものしかありません。
最期にこの初女さんのこの信条を遺訓として受け止め綴りを締めくくりたいと思います。
『言葉を超えた行動が心魂に響く』
ご冥福をお祈りするとともに、透明ないのちを受け継ぎ私たちは私たちの道で子ども達のためにその大和心・大和魂を実践していきたいと思います。