人は自分の都合で物事を考えていくものです。自分の都合の良いときに選んだものが後には都合が悪いと思ったりします。その時々の都合で良し悪しを決めている生き方は、執着してこうであらねばといったネバネバした生き方になってきます。
人はこうでなければと執らわれると、様々なことが都合が悪くなっていきます。その逆に、どちらでもいいと気にしない人は都合に合わせて自分は平気です。これらのことはものの見方の問題であり、さらにどんなことも自分の今に相応しい、今の自分にちょうどいいと思っている人は困難を機会だと前向きに捉えて楽しく挑戦していきます。
小林正観さんの話の一つにこういうものがあります。
「すべてがあなたにちょうどいい。 今のあなたに今の夫がちょうどいい。 今のあなたに今の妻がちょうどいい。 今のあなたに今の子供がちょうどいい。 今のあなたに今の友人がちょうどいい。 今のあなたに今の仕事がちょうどいい。 死ぬ日もあなたにちょうどいい。 すべてがあなたにちょうどいい。」
これは仏教の大蔵経の中に出てくる言葉だそうです。全てのことを受け容れて「ああ、自分にはこれがちょうどいいんだ」と無理をせず感謝に転じることができるのなら全てのことは有り難いと思えて次第にちょうどいいと思えるようにも思います。
人は与えられていることの奇跡よりも、思った通りにならないことに不平不満を感じます。どこまでも足るを知らず、さらにさらにと求めていきます。片一方では嬉しいことを得ているのに、もう片一方の嬉しくない方ばかりを見たりします。ないものねだりをしていると、ちょうどいいことが分からなくなります。
実際にちょうどよくないかと尋ねてみたら、自分にもっとも相応しいものを天が与えてくださっていることに気づけるはずです。そこに気づけるのなら、その御恩に報いようという気持ちが出て来ます。
ちょうどよいものに出会うのは実は当たり前ではないことに気づくことのように思います。ちょうどよい生活、ちょうどよい仕事、ちょうどよい自分、ちょうどよい今、このちょうどよいは全て当たり前ではない奇跡に出会っているということです。
その今を有り難く受け止め、その奇跡に感謝できるとき人はものの見方を転換していけるように思います。困難もちょうどいい、孤独もちょうどいい、苦労もちょうどいい、試練もちょうどいい、辛いこともちょうどいい、周りの人もちょうどいい、御縁のタイミングもちょうどいい、運もちょうどいい、年齢もちょうどいい、環境もちょうどいい、ちょうどいい、ちょうどいいと念じてちょうどよいことの有難さに気づこうとすることが足るを知り自分が本当に恵まれていることに自らで気づくことのように思います。
人と比べたり、誰かのことを羨んだり、その人ではない人生を自分の人生と見比べて不足を思うのは足元の幸せを忘れていることであり、自分に与えてくださっている恵まれた事実を見過ごしているからかもしれません。足るを知らない心はすべて私利私欲から来ているものであり、もっともっとと思う心は決して向上心なんかではなく我欲である場合もあるように思います。孔子は「己達せんと欲して人を達せしむ」ともいいました。本当の思いやりの人は、いつでも誰かのためにと自他一体に生きている人です。
「ちょうどいい」ことは足元の幸せに気付くこと、そして多くの見守りに気付いたならそれを大切に使わせてもらうことが人類共生の道理、自利利他に生きることのように思います。今まで人からいただいた御恩を忘れず、それをもっと大きなものにして御恩返しができるように足るを知る心を育てていきたいと思います。