人間はこの世の中のあらゆるものが循環していることを見失い目先ばかりを追いかけると、今の恩徳を感じられなくなるものです。また自分のことばかり心配をして、周りが見えなくなってしまえば余計に不幸なことばかりを思い幸福であることに気づけなくなるように思います。
人が視野が狭くなるのは、目先の心配に心を奪われ循環していることに気づけなくなるからです。循環を忘れないためには今まで受けた御恩のことを思うことのように思います。今まで生きてこられた事実の中に、未来への希望が存在します。もしも未来が見えなくて暗闇に包まれたとしても過去の御恩を思えば充分過ぎるほどいただいてきたことに感謝することができるように思います。またその感謝の心があれば、人は心に余裕ができ自分を見失わないでいられるようにも思います。
二宮尊徳翁の余話に下記のような話が遺っています。
「翁はこう言われた。世の人情の常で、明日食べるものがないときは、他に借りに行こうかとか、救いを乞おうとかする心はあるが、さていよいよ明日は食う物がないというときには、釜も膳椀も洗う心もなくなるという。人情としてはまことにもっとものことであるが、この心は、困窮がその身を離れない根源である。なぜなら、日々釜を洗い、膳椀を洗うのは、明日食うためで昨日まで用いた恩のために洗うのではないというのだが、これは心得ちがいだ。たとえ明日食べる物がなくても、釜を洗い膳も椀も洗い上げて餓死すべきだ。これは、今日まで用いてきて、命をつないだ恩があるからだ。これが恩を思う道だ。この心のある者は、天意にかなうから、長く富を離れないであろう。富と貧とは、遠い隔たりがあるわけではない。明日助かることだけを思って、今日までの恩を思わないのと、明日助かることを思うにつけて、昨日までの恩を忘れないのとの二つだけのことで、これは大切な道理なのだ。よくよく心得るがよい。」
困窮が離れない根源は、恩を忘れるからだと言います。そして天意に適い富が離れない理由は恩を思うからだと言います。そして昨日までの恩を忘れないことが何より大切な道理であると言います。
恩恵を思い、恩恵を忘れず、恩恵のための実践を行うものには常に豊かであるということを言うのでしょう。それは私にすれば循環の理を実践するものは、循環の中にあるから心配がないということに感じます。
その上で二宮尊徳は「報徳」といって、恩に報いることが徳であるとしました。報徳訓にはこうあります。
「父母の根元は天地令命に在り 身体の根元は父母の生育に在り 子孫の相続は夫婦の丹精に在り 父母の富貴は祖先の勤功に在り 我身の富貴は父母の積善に在り 子孫の富貴は自己の勤労に在り 身命長養衣食住の三つに在り 衣食住三つは田畑山林に在り 田畑山林は人民の勤功に在り 今年の衣食は昨年の産業に在り 来年の衣食は今年の艱難に在り 年々歳々報徳を忘るべからず。」
以上のことを忘れないでいることが常に困窮を離れる妙法であるということなのでしょう。恩返しや恩送りは社會を豊かに育てていきます。子ども達のためにも、恩を中心にした世の中の仕組みを考案し恩徳循環の実践を高めていきたいと思います。