刀や武士のことを深めていると、「分を弁える」という人格に気づけます。恥を知り、信義のため誠を盡す実践とはこの「分」という生き方のことを言うように思います。
今の時代は、分を弁えるという言葉は死語になってきたとも言えます。かつての日本は、他人様に譲る心や慎む心を優先してきました。それが次第に移り変わってきて恥を感じないような風潮が報道をはじめ広がっているように思います。恥は道徳のはじまりとも言われるように、恥の文化があったからこそ日本人の道徳力は高かったように思います。
分を弁えると言えば、同義語には「分別をつける ・ 弁える ・ 身の程を知る ・ 身の丈に合わせる ・ 分相応 ・ 背伸びしない ・ 欲張らない ・ 我を張らない ・ 欲を出さない 」などがあります。今では分を弁えるは、なんとなく偉そうにしないとかしゃしゃり出ないとかというように使われていますが実際は「我を張らない、私欲を出さない」などが本来の意味に近い様に思います。
「仰せの通りに」や「ごもっともで」などというのは、まず禮に沿って自分の都合を優先せずに大義を重んじるという生き方を実践していたように思います。すぐに自分勝手に自分中心に考えるような世の中になれば、我が出てきて私欲が入りますから身の程を間違い、礼儀をわきまえず、自分を過信過大評価してプライドを優先する人ばかりになってしまいます。
かつての日本は「分を弁える」ことで、御互いに自らを正し修行をし「自分に打ち克って」いくことを美徳としていたということではないかと私は感じます。自分が今あるのは何の御蔭か、先祖の御蔭、主君の御蔭、天地神明の御蔭であると常に忘れずに分際分限を弁えていたということです。
すぐに自分の力であると過信し、自分が特別なものだと傲慢になると人は分を弁えることがなくなります。そこから人は周りへの思いやりよりも、自分を愛しすぎるようになり人の話を聴けなくなり素直さと謙虚さを失っていくようにも思います。
身の程を知るというのは、足るを知る感謝の心が基本にあり自分が御蔭様によって譲られてきたことを自覚する謙虚な心の醸成です。分を弁える人の謙虚さの中には、いつも感謝を忘れていない実践が光ります。これも日本人がずっと大切にしてきた生き方、日本古来からある真心の徳目の一つだったのでしょう。
今の時代は教育により歪んだ個人主義が蔓延し、それらの個がせめぎ合って競い合い自己ばかりが優先される時代ですから「克己復礼」などという分際のことはあまり意識されないように思いますがかつての武士や侍をはじめ日本人が大切にしてきた精神文化は刀と共に消えていったようにも思います。
改めて日本刀のことを深めていると、なぜ刀が人を選ぶのかということも実感しました。人格なきものが刀を持つということは、単なる私心が武器を持っただけです。こんな武器ばかりをぶつけ合い私心で争い合うのでは平和とは言い難いようにも思います。本来何を磨くのか、武士の魂と呼んだものが何だったのか、侍が大切にしてきた徳目、分を弁えることを改めて観直したいと思います。
私自身振り返っても未熟さが身に沁みますが未来の子ども達のためにも、御蔭様の心で分を弁える実践をつとめていけるよう精進していきたいと思います。