日本語には、職人用語のようなものが沢山あります。大工用語であったり、鍛冶用語であったり、それぞれに道を深めた職人さんたちが鍛えあげた言葉があります。それは生き方と深く関連しているようで、その言葉は私たちの生活の中でも大事な場面で使われることが多い様に思います。
昨年から鐵や刀を深めていく中で鍛冶用語や研ぎ用語、日本刀の言葉に出会う機会が増えました。特にこれらは鍛錬用語のようなものに溢れていて、自分を鍛え磨き上げていくことに通じる言葉が多く己の我に打ち克つための言葉が溢れています。
日本人の先祖たちが大切にしてきた武士道は、如何に克己復礼するかに尽きるように感じます。かつての先祖は徳を重んじ、その徳に恥じない生き方をすることこそが日本人の心であり日本人の鑑であるとしています。それもかつての古の道具に触れたり、先祖の伝承してきた文化に触れると実感します。今では文化が失われて、使っている言葉も次第に忘れ去られていきますがもう一度、その言葉からその意味だけではなく生き方を感じ直して子ども達に伝承していきたいと感じます。
例えば、日本刀の言葉では「土壇場・しのぎを削る・切羽詰る・単刀直入・身から出たサビ・懐刀・伝家の宝刀・反りがあわない・真打・元の鞘に収まる・一刀両断・諸刃の剣・抜き差しならぬ・真剣勝負・つばぜり合い・一太刀あびせる」等々、沢山の言葉があります。これらも日々のやり取りの中で、日本刀を用いた生活の中から出て来た言葉です。
何を大切にしているか、何をすると失敗するか、その教訓や回訓を言葉に遺していたとも言えます。
例えば、「付け焼刃」という言葉があります。
これは本来「焼き入れ」という作業をすることで日本刀は強くなり切れるのですがその正式な焼き入れを行わずに軽い研ぎだけで模様をつけては刀紋がついたように見せかけることを言います。このことからたとえ一時しのぎその場しのぎではなんとかなったとしても、にわか仕込の一時で間に合わせたように装った勉強や技術では通用しないよ、つまり「付け焼刃」ではダメだという教訓なのです。
これは今の時代、すぐに勉強して形だけの技術を教えてしまう学校の勉強に似ています。付け焼刃では本番の世界では役に立たず、その道を深めて鍛錬・練磨する必要があります。宮本武蔵の「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を錬とす」であり、朝鍛夕鍛して本焼き入れを行ったものだけが本物の強さ、本当の切れ味を持つように思います。仕事も同じですぐに結果を出そうとして付け焼刃の知識や技術を得ても本当の意味で相手の御役に立とうとするのなら「焼き入れ」はとても大切な鍛錬になるのでしょう。
今は利便さ楽さを追求し鍛錬をすることを避けようとする風潮もあります。できれば鍛錬せずにできるための勉強をし知識を持とうとしている人も増えています。しかし古来からそれではならぬと武士道では戒めそれを言葉に遺しているのかもしれません。
鍛錬の反対は怠け癖なのかもしれませんが、豊かな時代だからこそこの鍛錬は非常に価値があるように思います。松下幸之助さんがこういう言葉を遺しています。
「暮らしが豊かになればなるほど、一方で厳しい鍛練が必要になってくる。つまり、貧しい家庭なら、生活そのものによって鍛えられるから親に厳しさがなくても、いたわりだけて十分、子どもは育つ。けれども豊かになった段階においては、精神的に非常に厳しいものを与えなければいけない。その豊かさにふさわしい厳しさがなければ、人間はそれだけ心身ともになまってくるわけである。」
人は五感をフル活用していなければそのうち怠け癖がついて次第に人間の本能が減退してくるものです。
生き方まで付け焼刃にならないように、日々の鍛錬を怠らなかった先祖たちに見習い日々に生き方言葉を磨き、刻苦勉励に勤めていきたいと思います。