日本刀の精神

先日、日本刀用語の中の「付け焼刃」について書きました。他にも似た言葉で「にわか仕込み ・ 一夜漬け ・ 間に合わせ ・ その場しのぎ」があります。付け焼刃は剥がれやすいやメッキが剥がれるなどもそうですが、本当の実力を身に着けなければ乗り切れないということに使われます。

しかしではなぜ付け焼刃が横行するのか、それを深めてみると今の教育の在り方や、誤魔化して済むような世の中の風潮も観えてきます。結局は、生き方を決めず覚悟を持たないでも生きられるものが溢れる豊かな時代、精神を如何に厳しく磨き鍛えるかということが求められているということです。

例えば、一夜漬けという言葉で思い出すのは学校のテストです。テストさえ乗り切ればいいのだから、一日、二日覚えていればその場しのぎで乗り切れたものです。他にも、その場さえ乗り切ればというものは沢山溢れています。特に器用な人やテクニックが高い人は、能力でその場を乗り切ることが出来てしまいます。一度、そうやって楽を覚えてしまうと次からまた楽な方法で乗り切ろうとするものです。逆に不器用な人は、それができませんからいちいち時間をかけて丁寧に愚直に取り組んでいくものです。

そのうち社会に出てからも、調子よく世渡りをする人と不器用だけれども真摯に世の中に貢献する人に分かれます。このことを考えるとアリとキリギリスの寓話を思い出しますが、結局は「己に克ち日常を怠らないこと」に尽きるように思います。その場しのぎの逆は平素を正すことだからです。何かあった時だけ乗り切ろうとするのをやめるのは日頃をキチンと正しておけばその時がきてもいつも通りにやればいいからです。

付け焼刃というのは、日頃の鍛錬よりもその場さえ乗り切ればで研ぎや付け足し刃をつけます。しかしその刃はすぐにまた切れなくなり、ただのなまくら刀になります。この鈍刀というのは、だいたい大量生産で造られたものです。本当の日本刀は、折り返し鍛錬によってはじめて切れ味の光る唯一無二のものが仕上がっていきます。

教育がもしも大量生産をしてしまえば、人間もまた鈍刀のような付け焼刃のその場しのぎばかりが育ってしまいます。本来の人間に必要な素養は、刀を打つ鍛冶師のような心構えで取り組む必要があるように思うのです。

単に見た目が日本刀であればいいなんていう刀を、誇りを持つ鍛冶師は打つはずがありません。鍛冶師がブレれば研ぎ師がブレ、その他の鞘師、白銀師、塗師、柄巻師、装剣金工の関係者もみんなブレていきます。常にみんながブレずに日本刀を造るからこそ日本刀の精神が宿りそして伝承され後世に遺るのです。一本の日本刀が仕上がるまでにどれだけ本気で皆がそのものを造り上げるか、そこが何よりも大事なのです。

鈍刀に仕上がってしまった刀は、見た目は立派でも切れ味のない実戦現場では使えないものです。今の時代、それで苦しんでいる大人たちが本当に多い世の中になったような気がしています。こうなるのも周りの人たちがどれだけその人を信じて本気になって正直に育ててきたか、見守ってきたかではないかと私は思うのです。

言い訳をしない、正直に生きるということ一つも日本の心であり大切な徳目の一つです。そういうことを怠り日常の鍛錬を積もうともしないで、いきなり目の前の出来事を一時しのぎ、その場しのぎ、一夜漬けで乗り切ろうとするその生き方から修正しなければなりません。

日本刀の中に見える私たちの先祖が大切にしてきた生き方から本来の大和魂とは何か、日本人の在り方とはなにかを学び直していきたいと思います。