理屈よりも大河の一滴

3月も中旬を過ぎ、いよいよ自然農での今年の高菜の収穫と稲作の準備に入ります。自然に取り組むとき、そこに理屈は通用しません。単なる本や文字で書かれていることは何の役にも立ちません。実際に役に立つのは、誠実さと真心、後は実践と実行のみです。

そこから人の道も同じく、単なる本や文字で書かれていることも何の意味もありません。言葉遊びばかりしていても、人の世がよくなることはありません。理屈でああすればいいとかこうすればいいとか言いたいことをいう人は沢山いますがそれも何も変わりません。やはりここでも実際に役に立つのは、至誠と実行のみです。

いくら聖賢の学問を学んだとしても、それを実行する方法を持っていないのならそれはやらないとの同じです。いくら学術的な知識を貯め込んでいたとしても、使えないものならそれもないのと同じです。

しかし今の時代は、具体的なものよりも形式的なものや理屈的なものばかりが評価され実際に地味に実践している人たちのことはあまり評価されることはありません。すごいことを知っていて周りから評価されている有名人は沢山いますが、実際に実践を積み重ねて世の中を変えている人のことはあまり有名ではありません。それだけ理屈ではない方はあまりにも地味すぎてこれくらいでは何も変わらないように目に映るのでしょう。

頭というのは思い通りに事が進むと勘違いしているものです。しかし頭で考えたようにみえてその実は現実に無理やり頭を合わせているだけでその通りにいくことはないのです。実際は理屈では物事はうごいたためしなどなく、全て至誠と実行でのみ動くのです。それが自然だからです。

自然というものを相手にするとき、こちらが具体的に動いた分だけしかカタチになることはありません。例えば、自然農においてもいくら理屈であれこれと対策を立てたとしても、実際には田畑に出て見回り、声をかけ、時折草刈りをし、時折虫たちや土の様子を見て、あとはその時々の状況を真心を籠めて寄り添っていくことで作物は無事に収穫ができます。そしてまた翌年に向けて、蒔き時から収穫時期、それまでに気づいた改善をすぐに実行して直すだけです。

いくら農業知識があったとしても、至誠と実行なくしてはそれは役に立ちません。至誠と実行は、真心をカタチにする具体的な実践のことです。実践を已めるということは学者になるということです。二宮尊徳は言います「茄子が先に出来たか字が先か」と。また「豆という字を書いてみよ、お前の豆は馬もくわん。俺の豆は馬もくう」と。理屈で文字遊びをしているような学問に興味は一切なく、実際の世の中を変革しようとするのなら行動をしたのです。

分かった気になると人は学問をした気になります。分かった気にならないようにするには一つ気づけばすぐにそれを行動することです。行動によって気づいたことが実践となり、実践となったことで世の中が一つ変わります。

自分の日々の小さな実践は所詮、大海の大河の一滴にもならないものであったとしても世の中を憂うのなら諦めきれないのが真心のように思います。真心を優先した一日を状況に左右されずに過ごしていきたいと思います。