水の徳

自然界というものは、常に万物流転しているものです。ありとあらゆるものに容を易えながら消えては現れ、そして顕れては消えていきます。しかしその本体は普遍的なもので存在しています。それは種が育ち花を咲かせ実をつけそしてまた種になるのと同じです。

自然の中においては土があり、木があり、そして鉄があり、火や水があります。私たちは鐵を中心に周りを水で包まれた惑星に住んでいます。私たちがもっとも師とする生き方は水であり、水と一体になって存在するこの地球は水の生き方から離れることはできません。

老子に「上善水如」があります。

「上善は水のごとし。水は善く万物を利して争わず、衆人の悪む所に処る。故に道に幾し、居るは善く地、心は善く淵、与うるは善く仁、言は善く信、正すは善く治、事は善く能、動くは善く時。それただ争わず、故に尤なし。」

意訳ですが、この世に在る至上の善を司るのは水である。水はこの世にある一切のものの役に立ちそして何ものとも争わず常に人々が嫌がるような低いところに存在している。その水の生き方はまるで道のように謙虚である。よく水が居るところは大地を潤し、その心淵は深く澄み渡っている、思いやりを与え続け、嘘もなくそこには信頼がある、私心なく治め、事は能力を活かし、動く時を知る。どんな時においても何ものとも争うことがない、そして決して誤る事がない。と。

水とはもっとも身近にあって空気のように気づかない存在ですがその持つ「徳」は、自然界では最も至大至高の存在なのです。先祖たちは常に水から学び直し、その謙虚で素直な姿に自らの心を祓い清めて真心を発揮していたように思います。

水の徳性として、「恩恵」「不争」「淡泊」「秘力」があるといいます。それは日頃から万物に利益を与え、常に謙虚でしかも柔軟であり、執着が無くさわやかに振舞い、時には大暴れの実力を秘めているということです。

さらに氷から水蒸気、霧や雨、空気にいたるまであらゆるものに寄り添って変化を已みません。万物流転し循環を促し見守る存在こそ水なのです。

この時期は田植えがはじまり今日も水に学ぶ一日になります。日々、学び直しを繰り返し傲慢になっている自分を省みて穢れを水に流し、新たな気持ちで再生していきたいと思います。

 

とも

今の時代は友達というものの言葉の意味が変わってきているように思います。自分を中心に人を分けては差別し分別し争いは尽きません。本来、人類をはじめすべての生き物たちはこの世の中で共に助け合い支え合った友人たちとも言えます。悠久の年月、自然災害や様々な困難、また平和で豊かなときも苦楽をずっと一緒に乗り越えてきた友達とも言えます。

友というのはプロセスを一緒にいきる、二つではなく一つの存在のことであり、分かれているものを自分勝手に分別したのを友とは呼ばないように思うのです。言い換えれば周囲にあるすべてのもの、地球に存在する生物非生物いたるまで、いのちはすべて友とも言えます。

アメリカインディアンたちは、自然と共に暮らしてきました。自然と共に生きる者たちはすべての声を聴き、すべてのものと「ともに」往きます。つまりこの「とも」の言葉の響きが「朋・伴・共・友」と同義でありすべてのいのちと歩むのです。彼らの言葉の中にそれが観得ます。

「地の果てまで行っても、海の向こうまで行っても、空の果てまで行っても、山の向こうまで行っても、友達でないひとに出逢ったことはない」

「植物は人の兄弟姉妹、耳を傾ければ語りかける声を聴くことができる」

「どんな動物もあなたよりずっと多くを知っている」

こちらが耳を傾けていけば、友はこの世に満ちています。しかし今は、自分の人生に縛られ時間に縛られ、大切なことを感じることができなくなっているように思います。星の王子様にこういう言葉があります。

「人間たちはもう時間がなくなりすぎて、ほんとうには、なにも知ることができないでいる。なにもかもできあがった品を、店で買う。でも友だちを売ってる店なんてないから、人間たちにはもう友だちがいない」

なんでも結果だけを重視し、評価ばかりを気にして生きていたら大切なものに気づけなくなります。この世でもっとも大切なものは一緒に寄り添い生きる友であり、その暮らしの中で助け合う仲間です。時間というものの概念が、様々なものを見えなくしていったように思います。悠久の自然の中にある自他の存在に気づくことが、友を見出す入口になるのかもしれません。

アメリカンインディアンたちは自然と「とも」に生きて私たちに伝えます。「日と夜、季節、星、月、太陽、その移ろいを見れば、人より偉大な何かの存在を思わずにはいられない」と。ともに生きる人たちには、そのともに生きる存在を感じ、友に常に心を開いていくことを大切にする生き方をしています。そこでは現代社會にあるような様々な孤立や偏見、差別は存在しません。それが自然界だからです。

最後に谷川俊太郎の「ともだち」と題する言葉から抜粋します。

「にんげんじゃなくても ときには ともだち。

どうしたら このこの てだすけが できるだろう。

あったことが なくても このこは ともだち。

このこのために なにをしてあげたら いいだろう。

あったことが なくても このこは ともだち。

おかねもちのこ まずしいこ、
どうしたら ふたりは ともだちに なれるだろうか。

だれだって ひとりぼっちでは いきてはゆけない。

ともだちって すばらしい」

人間は立場を分けたことで、本当の人間関係が築けなくなっている人が沢山います。きっとみんなそれでとても苦しんでいますから、同じように苦しんでものをみてほっとけない、なんとか助けてあげたい、時には共に寄り添い見守りたい、そう思うのが人間本来の素直な心情ではないかと思います。真心はいつも自然に湧き出てくる自然体の中に在ります。自他に正直に生きていけるよう、子ども心を大切にともを守っていきたいと思います。

 

ゆるさの本質

先日、高校で一円対話の聴福人をある先生に実践していただきました。その先生はとても明るくポジティブ、そして何より「ゆるい」性格の方で愉しそうに一円対話を子ども達と実践していました。一円対話は場創りが重要であり、その「ゆるさ」がとても場を和ませていたことが印象的でした。

ここ数年、ゆるキャラブームもあり「ゆるい」ということが使われるようになってきました。改めて「ゆるい」ということを深めてみようと思います。

そもそもゆるいという字を辞書で調べてみると、 張りぐあいや締めぐあいが弱い。また、すきまなどがあり、ぴったりとしない。 曲がり方や傾斜などが急激でない。 激しくない。勢いが弱い。また、ゆっくりしている。 規則などが厳しくない。寛大である。 水分が多くやわらかい。 気持ちがたるんでいる。などが書かれています。

実際にゆるキャラをみると、なんとなく抜けていて柔かい感じがします。つまりキャラクターがゆるい、そののんびりした存在にかわいくて癒されるとか感じて人気があります。どこかゆるキャラは不完全なところがあります、別に完璧でなくてもいいというその方がゆるくて楽しいという存在そのものの価値を感じられるものです。こうでなければならないやこうあらねばならないという固執したものがなく、融通無碍にありのままの不完全で和んでいるのが「ゆるさ」の特徴です。

広辞苑にはこの「ゆるい」の用例として吉田兼好の「徒然草」にある、『緩くして柔らかなる時は、一毛も損せず』と書かれてあります。これは「心がゆるやかで柔軟な考えができる時は人間関係がどうあったとしても他人の考えに影響を受けることなく髪の毛一本さえ傷つけられない」とあります。つまり心が寛大で寛容な人は、どんなものも受け容れるゆるさがあるがゆえに物事を受け容れる心の広さがあるということでしょう。心が広い人は、どんな出来事もポジティブに受け容れそれをまた取り容れる余地が沢山あるので自分の考えに固執しなくても自分の考えをちゃんと貫くことができているということです。

この徒然草の前にはこうあります。

「身をも人をも頼まざれば、是なる時は喜び、非なる時は恨みず。左右(さう)広ければ障(さわ)らず。前後遠ければふさがらず。狭き時は、ひしげ砕く。心を用ゐること少しきにして厳しき時は、ものに逆ひ、争ひて、破る。ゆるくして柔らかなる時は、一毛も損せず。人は天地の霊なり。天地は限るところなし。人の性、何ぞ異ならん。寛大にして窮まらざる時は、喜怒これに障らずして、もののために煩はず。」

意訳ですが、「誰にも依存しなければ、順調な時に喜び、逆境にある時に恨むこともしなくてすむ。左右が広ければどんな物に妨げられず、前後が広ければどこまでも行き詰まりがない。周りが狭い時は体が押しつぶされる、心を用いる時に余裕と柔軟さがない時は人と衝突し争って身を損なうことになる。ゆったりとして大らかに生きる時は毛一本ほども損なうことがない。 人は天地の間に存在するいのちの一つである。その天地の間には限界というものがなく無限そのものである。それは人の本性もそれと同じはずで心が寛大で限りなく広い時は、喜怒の情も心を損なうことがなく何かに煩わされることもないのである。」ということです。

つまりゆるさの本質は、「寛容・寛大でありゆるいということは自然に変化を愉しんでいる前向きな姿勢」ということです。人は固執することで執着が根深くなり、そのことで自我ばかりが強くなり周りを受け容れることをやめて強情になってしまうものです。しかし変化を愉しみ味わう人は、「あれもあり、これもあり、どれもあり」と何でも認める寛容さがあります。それは多様性を活かす考え方でもあり、それぞれの持ち味を発見し活かすコツでもあります。そしてこれは聴福人の大切な素養の一つです。

正しいことばかりが増えてくると息苦しくなってきます。そんなときこの「ゆるさ」といった寛大な心があれば正しいことよりも楽しい、そして面白い嬉しいと感じられるように思います。自然界はみんなこの嬉しき、楽しき、面白きに生きているいのちばかりです。

カグヤの理念は子ども第一義、このスローでゆるくポジティブな自然一体の子ども達の子ども心を見習って人間の世界であまり依存しすぎないように、常に自然の中で心を軽くしてウキウキワクワク緩やかに生きていきたいと思います。

 

 

自然の改善

人は自分がどのように育ってきたか、育てられてきたかというのは今の自分の価値観を形成するにおいてとても大きな影響を持っています。特に両親や祖父母の存在、または環境が与える影響は著しくその後の人生を左右するものです。

そしてそれは価値観を形成し、どのような評価を持つかということに繋がっていきます。自分の価値観が一度形成されてしまうと、その人にとっての「当たり前」のルールを持ちます。するとその価値観の中で様々なものを仕分けし、価値観以外の出来事を異質なものとして排除したり取り容れたりしていくものです。

特にその後何らかの教育を施され、皆と同じでなければならない、これはやってはならないなど様々な「ねばならない」という価値基準を刷り込まれてしまうとさらに価値観の中にその「当たり前」は定まっていくものです。それをその人にとっての「常識」と呼んでもいいかもしれません。

本来、人間は寛容さを失うとき柔軟性と多様性を失います。つまり変化を受け容れることをやめるとき、朽ち果てていくとも言えます。それは植物でいえば、新芽若葉が枯れ木になるようにその他の動物たちが赤ちゃんから年寄になるように柔らかいものが固まっていくものです。

それは価値観も同じく、年老いていけばいくほどに価値観が確立されていき次第に様々なことに固執していくものです。そして価値観が一つの考え方、ものの見方に固執してしまえば自分の方の寛容さも同時に失ってしまうものです。

例えば自然界というものは、常に自分の方の変化が必要になります。雨も風も太陽も、または災害もこちらではどうにもならないほど自然は正直です。その自然に向かってどうにかしようとしても、自然はそのままあるがままですからこちらが変化するしかありません。寒暖風雨には自ら場所を移動し、寄り添い寄せ合い、寒さをしのぐ逞しさを鍛え助け合い生き残ります。人間のように暖房があるわけではなく、暖炉があるわけではない生き物たちは相手を変えようとはせずにさらりと自分の方を変えていきます。自分の価値観ではどうにもならないほどの体験を、思い通りではない体験を素直に受け容れる柔軟性、またそれぞれの持ち味を活かして周りの生き物たちと一緒に乗り越えようとする多様性が自然界の智慧なのです。

人間も同じく生きていく上においてその場面は何度も「変化」という名目と共に訪れます。変化するということは、自然の智慧に回帰することです。本来の自分たちが大切に維持してきたその能力、言い換えれば素直な能力を存分に発揮することこそが自然の姿であり、その素直な能力があるから自然に回帰して不自然が消えていくのです。

人間も自然の一部ですから、本能が不自然を察知して変化をはじめるものです。自然か不自然というモノサシを価値観とは別に持てるようになれば自ずから異質なものを認める寛容さを磨き素直の能力を活かして価値観をブラッシュアップしていけるように思います。そのためには減点法やマイナス思考というそれまでに刷り込まれた価値観を手放し、逞しい前向きな自然の改善の姿に回帰していくといいように思います。

引き続き、子どもの生き方に学び直し子どもの周りに自然を育んでいきたいと思います。

純粋とは何か

物事の実相が素直に観える人は、心が澄んでいます。心が澄んでいるというのは、あるがままを感じることができるということです。言い換えれば、純粋な心のままということを言います。しかしこれはどのようなものか、改めて純粋ということの意味を深めてみたいと思います。

まず純粋という字を辞書でひくとまじりけがなく、邪念私欲がなく、一途さやひたむき、打算や駆け引きがないことなどが書かれています。そしてこの字の生い立ちを見て見ると純はたばねた髪飾りをつけた幼児の象形でまじりけのない美しさの意味を表します。そして粋も完全に精米した米の意味から、まじりけがないの意味を表します。これらはまじりけがない存在のことを純粋としています。つまり全体から感じるイメージは「まじりけがない」ことが純粋さのことであろうと思います。

しかしまじりけがないとは何か、何がまじることなのかということです。まじるというのは不純物が入ることと思われます。しかしちゃんとまじるものこそが純粋とも言えます。それは混然一体のまじりけこそが純粋そのものなのです。つまり何でも素直に受け容れることができる、それが純粋でいうところのまじりけがないということだと私は思います。つまりまじりけがないということは、すべて丸ごと混じらせることが出来るという意味です。

だからこそ純粋な人とは、素直で寛容な心を持つ人だとも言えます。さらに心が開いているオープンな人でもあります。これは言い換えれば、子どもの純粋さと同じです。子どもに善悪はなく、こどもに正否はありません。心のままにあるがままにありとあらゆることをそのままに感じる素直なままの存在です。それが大人になると次第にその心が閉じていきます、閉じないためにはあるがままの全てをあるがままに受け容れて味わっていくことで子ども心は維持されていくのです。一円対話の妙味も其処に尽きるとも言えます。

詩人で書家である相田みつおさんにこういう詩があります。

「あなたの心がきれいだから なんでもきれいに見えるんだなぁ」

これはきれいをきれいと感じている人の純粋さを語っているようにも感じます。つまり心がきれいかどうかもありますが、そう味わっているんだと思えるということです。

他にも「雨の日には 雨の中を 風の日には 風の中を」があります。これも同じように自然のままに純粋に味わっている姿があります。「体験してはじめて身につくんだなあ」などもあります。同じく詩人坂村真民さんは「万巻の書を読んでもその姿勢が正しくなかったら何の価値もない 大切なのは人間を見る眼の人間に対する姿勢の 正しさにある 真実さにある 純粋さにある」と言います。このお二人のどの詩にも物事の実相のことが素直に語られています。

このありのままのことをあるがままに感じる感性、それを素直さとも言い換えてもいいと思いますがこれを磨いていく人こそが純粋性を保つ人のように思います。いちいち味わうことをしないために知識で塗り固めていたら、大切なものを感じる素直な心も次第に消失していくものです。どんなことも丸ごと受け容れる、どんなことも善いことだとして受け容れる、そういう味わい深い生き方の中にこそ純粋さはあるように私は思います。

子どもを守る仕事、子ども心を見守るのだから大人になっても老人になっても一生涯常に自らを素直に省みて万物渾然一体自然一円観に純粋な日々を歩んでいきたいと思います。

素から直す~陽明学~

日本に影響を与えた人物に中国の王陽明がいます。王陽明の生き方や思想、その生き様は日本では中江藤樹や吉田松陰をはじめ様々な人たちが影響を受けてその学問を深めていきます。

王陽明の思想は、「心即理」であり私の解釈では心とは知良致であり、明徳であり、直毘霊であり、大和魂であり、現代の解釈では素直であるということです。王陽明は、「抜本塞源」という言葉があります。これは「根本から誤りを是正しなければ意味がない」ということです。「素直」という字も、「素から直す」と書きます。そもそもの中心になっているものを見直し、原点回帰しなければ直るものも直らないということです。そしてそれは素直になることであり、素直の能力を磨くことでしか本来の心は出てこないと言い切るのです。

そのために必要なのは、「事上練磨」という日々の実践をどう磨き己に克ち続けるかと言います。素直を磨くために境遇に一喜一憂せずに只管に真心を練磨していくための実践を行うことだと言います。学問のための学問ではなく、まさに自分の真心を盡すために生きることを言います。それを吉田松陰は「至誠」と解釈し、環境や状況に有無を言わずただ一心に真心を盡すのみと人生を生き切ります。この生き方こそが王陽明と同じであり、陽明学の真髄はこの至誠に尽きるようにも思います。

王陽明という人物は、文人としても武人としても立派な人であり荒廃した村に学校をつくり人々を導き徳のある村にしたり、戦では一滴の血を流さずに戦争を終結させたり、政治がとても乱れて賄賂も横行していた慾に乱れた世の中においても私財をなげうって貧しい人たちに寄り添い続け義を貫いた生き方を実践しました。

陽明を慕う人々は、何よりその純粋な生き方をみて感じ入るものがあり素直に生きること、心のままに行動し実践することの美しさを感じるように思います。今の時代、美しく生きるということが難しくなってきていますが本来の先祖たちが目指した生き方はこの「心即理」に適っていたように思います。

ではその心が理から離れるのはなぜか、それを王陽明は山中の賊になぞらえてこう例えます。

「山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し」

自他の中に賊あり、その賊が邪魔をして素直な心はかきけされていきます。たとえ山にいるような山賊を倒すのは容易でも、心の中にある賊を倒すのは難しいということです。実践を通じて自分がブレていることに気づきそのたびに根本に回帰し、素から直すことを繰り返しながら、本来の心のままでいるための克己の工夫をどう磨いていくか、日々は事上練磨ですから今日も真心を盡して素直のままの心を育てていきたいと思います。

 

努力の本質

今の時代は「努力」というと、何か無理をして一生懸命に頑張ることであると認識している人が多くいます。特に努力は実るという言葉あるように、必死に努力をすれば必ず結果が出るようなことを語られます。そのためか、努力しても努力しても結果が出ない時はどうせ無理と諦める人も増えたように思います。現在、使われている努力の意味は学校で教えられたものですが本来の努力とは何か少し深めてみたいと思います。

そもそも努力というものは、何処から来るものか、それはその人が何かやりたいことがあって自然に湧き出てくるものです。例えば、吉田松陰に「やむにやまれぬ大和魂」という言葉があります。分かっていてもとめられないほどにやりたいという気持ち、つまりはそこまでしてでも成し遂げてみたいと根底から湧き出てくる素直な心のことです。

素直な心を持つ人だけが、本来の努力をし、素直な心が出なければそれは努力とは呼ばないと私は思います。

幸田露伴にこういう言葉があります。

『気づいたら自分の行いが自然と努力になっている。それこそが努力の真髄であり、醍醐味である』

つまり、努力は無理にするものではなく気が付いたとき自然に努力になっているというものです。本来の努力は自然発生的に素直な心から発生するからこそ、その人の主体的なやりたいことを尊重することでその努力が本来の努力となり結実するのです。そしてその結実の意味は結果が出るということではありません。醍醐味という言い方をしていますが、深い味わいがあるということです。そして努力の解釈としてこう続きます。

『努力には、1.直接の努力、2.間接の努力、2種類ある。目の前の課題、今やるべきことを精一杯頑張るのが直接の努力であり、物事の準備や頑張るための基礎的な力が間接の努力。人間、時に努力の結果を云々しがちだけど、努力は自発的に頑張ることであり、自然な行為。結果は気にせず、努力すべし。もし、努力が思う通りの結果にならないのであればそれは努力の方向を間違えている。もしくは、間接の努力が足りないから。準備し、やる気を高め、意志を持ち、努力を継続する。』

自発的にやっているからこそ結果が気にならない、それが自然の行為なのです。自然にやっている人は、別に誰かのためにやるのでもなく自分のためにやるのではなくただ好きだからやっているのです。私も何でも好きになる性格らしく、すぐにのめり込んで深めていきます。特に集中すると労苦よりも、努力していることが味わい深くやめるにやめられなくなっていくのです。そして幸田露伴はこうも言います。

『「好んで為す」といっても、そのあいだに好まざる事態が生ずるのは人生にありがちな事実である。その好まざる場合が生じたときに、自分の感情に打ち克ってその目的の遂行をするのが、すなわち《努力》なのである。』

勿論、努力は好きで楽しくても時折とても苦しいときがあります。そんな時は、自分の感情に呑まれるときで価値観を壊す必要が出てくるときです。そういう時には、感情に呑まれていようがいまいがそれにすぐに気付くために実践を続け、実践を通して感情に打ち克ってその上で平常心を取り戻す、それがすなわち「努力の本質」であると私は思っています。

努力とは素直から出てくるものだから、如何に平常心を維持するかということが何よりも優先されるのです。平常心は、感情を揺さぶりますから大事なのは感情よりも理念や初心が優先されるだけの胆力を磨くということでしょう。

本来の努力、自然のままあるがままに楽しみながら日々を精進していきたいと思います。

素直の能力を使うとは何か

人は最も分かっていないのが自分のことだとも言います。他人から指摘されてはじめて人は自分のことが分かります。自分でいくら分かった気になっていても知らず知らずのうちに自分のことを思い込み勘違いするものです。そしてその自分の価値というものを歪ませていくものです。人間にはそれぞれに価値観というものがありますから、価値観を自覚していないまま自分を知ったと思っていてもその価値観自体を見つめることなしに自分を分かるということはないのです。

しかしこの価値観を見つめるには、価値観を超えたものの見方ができるようにならなければ価値観に縛られてしまいます。私が伝えている聴福人の実践、「人の話を素直に聴ける能力」も、そのために必要な自己修養の要なのです。この素直さというものは能力ですから、使う人と使わない人がいるだけです。このもって生まれた素直さという能力を活かす人はその素直の能力を使って話を聴くことができます。そこで自分の価値観を超えた見方を知るのです。素直の能力があるのに使わないというのはもったいないことですから常に自分を見つめるためにも素直の能力を使いその力を伸ばしていくといいと思います。

しかしその素直になれないのも自分の価値観に固執するからです。その固執した分、周りとの軋轢は発生します。自分の存在価値をどのように捉えているか、そこに価値観の固執から抜け出すヒントがあると私は思っています。アメリカの実業家で著述家にジェリー・ミンチントンがいます。その人の言葉の中に存在価値のことが分かりやすく解説しています。

「生まれつき価値のある存在なのだから自分の価値を他人に証明する必要はない。」

人はそもそも生まれつき存在価値があるものです。何かができるとかできないとか、成功とか失敗とかでその人の存在価値が変わるということはありません。いちいちそれで存在価値を変えていたら面倒なことになります。人の存在価値とは生まれつきのものです。しかし周りを見渡せば、存在価値ばかりを気にして自分ができなければ存在価値がないと思っている人も沢山います。自分が存在価値がないと思っている人は、同じような人のことも存在価値がないと見なすものです。これも一つの「価値」観念ですがそこに気づくことが最初の入口かもしれません。

他にもジェリー・ミンチントンは、自分の価値観を正しく知りその価値観を超えた見方をするための言葉を記しています。ここでは価値観のことを「思い込み」と認識するといいと思います。

「何かが真理であると思い込むと、それが実際に真理であるかどうかは関係ない。私たちはいったん思い込みにとらわれると、まるでそれが真理であるかのようにふるまうようになる。」

「私たちは知性、善悪の判断、倫理、道徳、正義、善良さ、礼儀作法などの面において、自分が他人よりも優れていると思い込んでいる。自分のやり方が正しく、他人のやり方は間違っているというわけである。もしそう思い込んでいないなら、自分が他人を評価できる立場にあるという無神経で独善的な思い込みはしないはずだ。」

思い込みというのは、自分を正当化していくものです。しかしもしも謙虚であれば、ひょっとしたら間違っているのは自分ではないかと素直の能力を活かして振り返れるものです。そしてその姿勢になってはじめて人の話が聴ける自分、価値観を超えたところで物事の実相に気づく境地に入るとも言えます。思い込みが外れないのは、価値観に固執し感情に呑まれるからです。その理由は自分の正当化に他なりません、自分を正当化するからこそ周りを変えようとするのです。

「私たちが他人に向かって、『あなたのせいですごく腹が立つ』と言うとき、実質的には『あなたのせいで私はすごく気分が悪いのだから、あなたは変わる必要がある』と言っているのだ。しかし、たとえ他人が私たちの感情的な問題の責任を受け入れてくれても、満足のいく解決策にはならない。症状を取り除いても原因がそのままである限り、同じような問題がまた発生するからだ。」

「自分の気分が悪いことを他人のせいにすることは便利だが、他人にそんなに大きな力を与えてしまうと、自分の立場が弱くなるだけである。そうなると、私たちは他人が親切にしてくれるを期待しながら、生きていかなければならなくなるが、そんなことは実際に期待できるはずがない。」

「注目すべきことは、私たちが他人を変えようとして、様々なテクニックを駆使することではなく他人の不快な行動を変えさせるために私たち自身がかなり不快な行動をとっているという事実である。」

そしてこうも言います。

「現実を直視しよう。変えることの出来ない現実は、受け入れる以外に方法はない。」と。

今、起きてることの現実を受け容れないところに問題があるのでありそもそも問題は自分の価値観から発生してくるものです。なぜならある人にとっては造作もないことでも、ある人にとってはトラウマと向き合うほどのこともあるからです。現実の直視もまた素直の能力が必要です。しかし問題は決して悪いことではなく、問題があるから物事の本質に気づき直すこともできます。結果ばかりを心配してプロセスを味あわなければ気づくことができません。

人は気づくことで初心を思い出しますし、気づくことで改めて自分の何を変化させていけばいいかを発見しますから価値を自分で勝手に決めてはならないのです。

そしてジェリー・ミンチントンはこう勇気づけます。

「かなりひどい過ちも含めて、過ちを犯すことはきわめて正常である。私が犯した過ちは、私の知性や人間としての価値とは関係ない。」

「私たちはどんなに愚かな過ちを犯しても、それをすすんで認めるべきである。私たちは死ぬまでつねに過ちを犯しつづける存在なのだ。過ちを犯しつづけるかぎり、自分がまだ生きて学んでいることの証である。」

失敗や成功がその人の値打ちを決めるものではありませんし、その人ができる人かできない人かがその人の存在価値を決めるものでもありません。その人の存在価値は、何もしなくても何もできなくてもそのものが価値なのです。それが存在するということであり、その存在そのものが価値であることに気づくことが本当に自分を知ることなのです。

今の時代は、かつての教育を刷り込まれその課題で苦しんでいる人たちがたくさんいます。しかしこれも気づくための善い最良の機会と捉え、一緒に歩んでくれる人たちや信頼する人たちともに新たな価値に気づき素直の能力を磨いていく砥石にしていけばいいと思います。

分からないことがあっていい、知らないこともあっていい、そしてできないことがあっていい、あってもなくても両方善いのが一円観です。引き続き、聴福人の実践を味わい盡していきたいと思います。

福の修行

昨日から新潟の春日山に来て、上杉謙信を深める機会がありました。春日山神社、毘沙門堂、その後、林泉寺に参拝しました。上杉謙信の生き方や思想は、この地に多く遺っています。上杉謙信の「謙信」は、法号であり戒名を不識院殿真光謙信と言います。そして林泉寺には「第一義」という謙信の座右が山門の入口に掲げられています。この法号のはじめにある「不識」というのは禅の達磨大師の言葉です。

「不識」には林泉寺HPにこう紹介されています。

『仏道修業に励んでいた謙信公は、林泉寺八代目の益翁宗謙大和尚「達磨大師の言った不識とはどういう意味か」と問いました。苦修練行数カ月の末、ついにその本旨に達しました。不識の中味に合致した生涯を見出した謙信公は、自ら「不識庵」という号を名乗りました。不識というものの意味は、梁(中国)の武帝と達磨大師の間で取り交わされた問答の中で達磨大師が答えれらた言葉です。不識は、「しらぬ」ということではなく、「ただ頭の中で考えたり、本で学んだ知識などでおしはかれるものではない。あらゆる偏った見方、考え方を捨てて、仏様に身も心も預けて、仏様とともにその教えに生きるとき、初めて真理と自分とがひとつになり、悟りがひらけて、自分も仏様になれるのだ」ということです。』

自ら毘沙門天を志し、戦国時代に生まれ義を貫くことを覚悟し生きた謙信にとってこの「不識」というのは人生の大きな課題だったように思います。何がもっとも善いことなのか、何を信じて生きるのか、その時、経典の中にあった良し悪しをも全て忘れ、無心に私我を手放し捨て去っていく中に「第一義」があったように思います。私も理念で「子ども第一義」としていますが、この第一義はそのまま、あるがままという意味があります。つまりは、子どものままを貫くともいい、子ども心のままともいい、常に子どもの側から物事を観続けるという意味でもあります。

また毘沙門天というのは、サンスクリット語(インドの古語)では「ビシュラバナ」と表記し、この音写が「ビシャモン」と言います。言葉としては「全て丸ごとを聴く」という意味を表しています。そして毘沙門天は七福神の一人に数えられています。私が実践を重んじる「聴福人」というのはこの毘沙門天の生き方、つまり如何に全てを聴いて信じて福に転じるかを徳目に実践するということです。

「義」というのは、古来から続く日本人の生き方を貫くときに顕現するものです。そのあるがまま、自然、かんながらの道の上には義は燦然と輝き子孫たちへの道しるべとして風土の彼方此方に文化として継承されていきます。

毘沙門堂で四方の自然を感じながら毘沙門天を念じ続け、神人合一しようとした謙信の祈りが聴こえてくるかのような感じがしました。人間の世界での筋道もありますが、人間よりも先に自然の筋道というものがこの世には存在します。その人間の小我を手放し、自然の大我を悟るというのは第一義の実践によって実現するように私は思います。

常に自然を優先しているという意味が、「謙」でありそれを「信」じるものとして自然あるがままであったその生き方に私は「義」の本質をいつも感じます。義と言えば、日本には義将と呼ばれる風土自然を顕現した武将たちの生き様や真心がいまでも語り継がれています。

古来から大切にしてきた忠義という言葉も、今の時代は色あせて別の意味で使われます。そのうち自分の価値観に囚われて思い込み、忙しさに流されて大義を忘れて自分をも亡くしてしまっている人も増えたように思います。

こういう時代だからこそ毘沙門天から福の徳目を学び直し、もう一度「第一義」を座右にしていくことが必要になってくると思います。引き続きカグヤは「子ども第一義」を掲げ、この時代に温故知新した福の修行を積み重ねていきたいと思います。

 

 

表裏一体~徳の見方~

世の中の全ての物事は陰陽から成り立っているものです。光と闇、熱い冷たい、健康と病気、男と女、水と火、全ては陰陽があり表裏一体とも言えます。御互いに長所があり御互いに短所がある。その両方が上手く機能して調和しているのが自然界とも言えます。

しかし実際は人間の都合で、良し悪しを決めつけてしまいそのものを裁いて分けてしまうと本来の姿、物事の実相が観えなくなっていくものです。悪いと決めつけたものがずっと悪く、良いと決めつけたものが良いとは限りません。特に人においては、集団で何かを行う組織においてはその人の個性が一般的に悪いと言われることが善いところになったり、良いと思われていたところが悪くもなります。

つまり個体として悪いところが見えるのはその反対に善いところがあるのであり、短所を見るとき、その人の長所が同時に発見できるとも言えます。長所短所も表裏一体ですが、どのようにその人は見るかはその人の物事の見方に由るものです。

私は自分に都合の良い人の見方をするのではなく、全体を丸ごと見て如何にそれを善いことにするかということを気を付けるようにしています。なぜなら、物事はその部分だけで完結するものではなく全体を観た時に発生する相乗効果があるからです。自然界も同じく、色々な生き物には一長一短あります。完全に自分には都合の悪い存在もあります、しかしよくよく観察し全体を通してみた時、その都合が悪いことはとても大切な役割を果たしていることがあるのです。そういうものを排除するのではなく、そのものの特性を活かそう、そのものの持ち味を活かそうとするところにこの世の陰陽の法理を修める境地があるように思います。

たまたま表裏一体のことを深めていたらあるブログに感性論哲学創始者の芳村思風氏の言葉が掲載されていましたので紹介します。

「世の中は何事も、陰・陽、内・外、白・黒、高・低、表・裏・・・と一対を成している。性格も同様に、社交的な人は八方美人、慎重な人は優柔不断、意志の強い人は頑固者と、長所と短所は表裏一体。好感を抱く人に対しては、裏(短所)を見ないようにして、表(長所)を見ようとする。嫌悪感を抱く人に対しては、表(長所)から目を背け、裏(短所)ばかり見てしまう。 性格は持って生まれたものなので、直そうとしても直せない。 自分の長所を伸ばして輝かせれば、裏は表となり、短所が目立たなくなる。 同様に、人を見る際は正面だけでなく、上からも下からも斜めからも、360度丸く見て長所を見つけなさい。」

この”360度から丸く見て長所を見つける”という言葉は、私の実践哲学である一円観であり、何よりも丸ごと信じきるからこそできる境地です。よく社内でも、その人の短所を見極めたり深めたりしていますがそれはその人を丸ごと知るために必要なことなのです。そしてそれをどう長所として転換するかが本来の持ち味の活かし方です。良いところのみを限定して見ている人には、その人の本当の持ち味や実力は分かりません。メリットもデメリットも見たうえで、その人のことを丸ごと好きになる、そういう人だけがそのものを活かせるように私は思います。

好きになるという境地の先には、物事を愉しむ境地があります。よく「知好楽」という言葉もありますが、全ての物事を善い方を観ようとする人はいつもこの境地を素直に楽しんでいるものです。

人間関係も同じく、表面だけを知っていて裏面も知らないではそれは表裏一体を知ったとは言えません。表裏を知るものだけが、表裏を好きになり、表裏を好きになるものだけが表裏一体の境地を体得するのです。

その人を味わうように感じることや、そのものを味わい盡すように愛おしむ中にこそ人格が高まり円熟していく秘訣があるように私は思います。子ども達の個性を活かし合う場を創出していくためにも、この表裏一体を磨いて徳の見方を学び直していきたいと思います。