鐵から学ぶ

私たちは明治期に諸外国の技術に追いつくために、それまで永らく先祖たちが磨いてきたそれまでの技術を一旦捨てました。例えば、製鉄法でいえばたたら製鉄という砂鉄を炭で熔かして純鉄といった玉鋼を作る技術から、西洋のコークスによる高炉から錬鉄の製造を始めた炭素との合金である銑鉄を作る技術になりました。

それまで少量ですが質の高かった技術よりも、質が下がっても大量に便利につくれる効率の良い技術の方を優先したとも言えます。産業革命はそこから発生し、大量生産をした戦争の武器を含め、様々な鉄製の道具が作られました。

世の中の道具を見渡してみると、車も船も飛行機も、それに身近な建物から生活道具に至るまで鉄は利用されています。

地球の3割は鐵でできていると言います。マグマの鉄がなければ磁場を作り出すことはできませんし、磁場がなければ地球は紫外線や太陽風を避けられず生命は存在できません。さらに生育の観点から見れば、血液が赤いのは赤血球が赤いからであり、その中のヘモグロビンなど鉄イオンがなければ酸素を肺から身体の隅々にまで送ることが出来ません。他にも植物をはじめすべての動物には、体内に酸素を供給する鉄分の補給が欠かせません。つまり光合成、呼吸、窒素固定、DNA合成、等々、地球上のあらゆる生命体はこの鐵がなければ生きていくことできないほどかけがえのない存在なのです。

地球は鐵の塊であり、その周りを水で覆っているだけとも言えます。水の惑星とも見えますが本質は鐵の塊が星の姿であるのです。その星の根本が隕鉄で生成されて、私たちは星の熱にいのちが暖められ地上でいきることができています。

話を戻せばその鐵の生成において、単に効率を優先して大量に生産すればどうなるか。鐵を生成する本物の技術が消失するということは、本来の鉄の質が低下していくということです。

例えば、日本刀でいえば慶長年間以前に製作された刀を古刀とんでいますがこの年代を境として日本刀の製作方法や用いられる鉄材に大きな変化があったそうです。慶長年間以降の日本刀を新刀と呼びますが不思議なことに鉄の精錬技術が未熟であったはずの古刀期の日本刀の方が刀鍛冶同士の技術交流や鉄の精錬技術が進んだ新刀期以降の日本刀よりも優れた作品が多いといいます。戦争により大量生産がはじまることで優れたものが消失してきたとも言えます。これは明治以降と同じ状況です。常に質は戦争によって下がっていきます。

大量に生産するということは、質を求めていくこととは異なります。ここでの質とは本質の質のことです。つまりは「それは何であるか」が失われていくことです。本来の鐵が次第に鉄ではなくなって別のものになっていく、それでは自然から得た智慧をも失っていくとも言えます。

先人や先祖たちは、そのものの性質を見極め、そのものの性質に合わせたものづくりを大切にしてきました。もっとも理に適った方法で、もっとも理に沿ったものを作ったとも言えます。それは自然循環に逆らわず、地球が喜び、生き物たちが活かされる技術でした。人間都合でだけの技術は、質が低いものとして扱わず大切にしてきたからそのものの伝統技術が今に光っています。

鐵は今、まさに過渡期にきていますがこれは人もまた過渡期になっていることを意味します。如何に明治時期に失った技術を温故知新して今の時代に譲り遺していくか、これは生き方を含め真摯に向き合う必要がある様に私は思います。

鐵を深め、鐵から学び直していますがそこに観えてきたのはいのちを活かすという自然の智慧を鐵が持っているということです。歴史の中で変えてはならないものが何で、変えていくものが何か、本質を維持するために今の世代の責任者として今できることを子どもたちのために遣り切っていきたいと思います。

 

 

形骸化の意味

形骸化という言葉があります。これを辞書でひくと「誕生・成立当時の意義や内容が失われたり忘れられたりして,形ばかりのものになってしまうこと」(大辞林)とあります。

形骸化というのは、そのものの本質や実体が別のものに変わってしまうということです。目的意識をなくしてただやってるだけのものは、形骸化であって本質的ではありません。よくマンネリ化という言葉もありますが、なんとなく続けているうちに何も変化がなくなってただやっているだけということも形骸化の一つだと思います。

これらのことは質の問題であり、質を求めることをやめた状態とも言えます。何のためにやるのかを忘れる人は、物事をすぐに形骸化させていきます。主体性というものは、自ら積極的に本質を深めていきますから主体性が喪失してくると形骸化するとも言えるのです。

如何に形骸化しないか、それは言い換えれば如何に活性化するかということですがそれは常にスクラップアンドビルド、日本語では温故知新し続けていかなければならないのです。

改善という言葉もありますが、これはやってみたことをフィードバックしてそれを改善していくことです。よく勘違いしている改善は、先に計画を立てて計画に合わせて修正していくことを言いますがこれは改善の本質ではありません。改善は、まるで植物や野菜の種を蒔いて育ててみて一通り終わってからそこから蒔き時や収穫時期、草刈やその他の寄り添いなどを全て観直しそれを次の年、また次回に反映させていくことです。

つまり自分の思い通りにいかないのを修正するのが改善ではなく、次回に向けて謙虚に見直しをかけてそれをまた新たに挑戦していくことが改善なのです。本来の改善は何のためにあるか、それは常に目的が本質から外れないようにあるのです。

それが改善を怠り目的が本質から外れたらすぐに人間は形骸化をはじめマンネリ化が進みます。そうするとわけのわからないまま意味のないままの業務が増えていくだけですから業務省力がまったく進まなくなるのです。本来の業務省力は、本質を維持するための改善を続けて革新を連続していくことです。そのために、フィードバックは欠かせない大切な実践になり、それを行うことで次への課題が明確になり改善が進み本質が維持されるのです。

何のためにと行動する人は、業務省力が出来ている人とも言えます。世の中、業務過多になれば心が忙しくなり、丹精が籠りにくくなります。そうやって仕事を増やし続けていたら大切な本質までも見失ってしまうかもしれません。

子どもの仕事をするからこそ、常に本質からブレない実践を積み重ねていきたいと思います。

徳の貯金

世の中には一般的に目に見える利益というものと、目に見えない利益というものが存在するように思います。それは目に見える給与と目に見えない給与というものがあることと同じで、直接的に得られるものと間接的に得られるものがあるのです。

今はあまり語られることがなくなってきましたが、「徳」というものがあります。直接、銀行に現金を貯金をするものとは別に、間接的に天に徳を貯金をするということがあります。本来、先祖が働いて貯めてくださった徳の貯金を使って私たちは今の時代を生きられるのであり、子孫は同じく今の私たちの徳の貯金を使って生活していけるとも言えます。

もしも自分の世代だけで、先祖の徳を使い切ってしまえば次世代の徳の貯金は枯渇し目に見える直接的な利益も目減りしてきます。例えば、自然の資源も次世代のために豊かな自然環境を残してそれを育めばその恩恵は次代に譲れます。しかし今使い切れば、次代は恩恵はありません。そうなれば今のような食べ物もなく、今のような材料もなく、今のような多様な環境もありません。

今、かつての歴史においては最高に豊かで贅沢な時代だと言われています。平和も続き、食べものも豊富にあり、ありあまる富の中で私たちは生活しているとも言えます。しかし、これがこの先どうなるのか、子孫たちはこれを維持していけるのか、少し考えればこのままの生活が如何に徳の貯金を使い果たしているかが分かります。

天の貯金といえば、石油などの鉱物資源もそうです。地球の数十億年の歴史の中で蓄えられた地中深く累積した微生物の死骸の化石が、あっという間に使い果たされて枯渇しています。これでは次代は鉱物資源が使えずに、苦しい現実を迫られます。もしも持続可能な燃料にシフトして、大切に使っていけば次代へそのまま譲れますがそもそも自分の世代や自分のことしか考えないとなくなってしまうのは自明の理です。

本来、徳というものは思いやりや真心で損得抜きに行うものです。そういう行いの一つ一つが天にある徳の貯金を殖やしていきます。そうやって殖やした貯金を使って私たちは今の生活をするのだから、もっとも大切なのはその貯金を減らないようにすることと殖やしていくことを考えなければなりません。

どんな生活を送ることが徳の貯金を積むことなのか、どんな生き方をすることが徳の貯金を減らさないことか、そういうことを学び直す必要があるように思います。先祖たちが偉大だったからこそ、私たち日本は今のような裕福さを得ることができました。その先祖の遺徳を偲び、先人の偉業に感謝していくなかにこそ、その徳を継承するヒントがあるように私は思います。

引き続き、先祖たちの生き方から徳を見出し、徳の貯金を子孫へ譲っていけるように温故知新した様々な生き方の実践を伝承していきたいと思います。

和とは何か 1

昨年から暮らしの実践をはじめ、身のまわりの道具や環境が和のものに変化してきています。和のものとは、日本古来のものであり先祖たちが手作業で編み出して産み出してきた智慧の姿を顕すものです。

今の時代は、西洋や外来の文化を中心に大量生産されたものを家具や道具に用いることが増えています。家も西洋風になり、家具もその他の生活スタイルも西洋のものを取り容れています。しかし、歴史のある建物や古民家などにはかつての日本の生活スタイルで用いられた文化が遺っていることもあります。

改めて「和」とは何か、少しずつ深めていきたいと思います。

和というものは、辞書をひけば「仲よくすること」や「調和すること」、「協力すること」や「結ぶこと」など書かれています。他にも「やわらぐ」、「おだやかな」という意味もあります。この和という言葉は、私たちは聖徳太子の時からはっきりと意識しはじめたように思います。和の文化と呼ばれる日本文化は、伝統文化の中に色濃く残っています。先祖たちがどのように生きてきたか、どのように暮らしてきたか、その中に和の本質は現存しています。その先祖の智慧を敬い、謙虚にその智慧に触れるとき和は私たちの心の中に感応できるものです。

私の思う「和」というものは、自然に融け合うことです。道具をはじめ家具から家屋、その他の文化はすべて自然に寄り添い自然と融け合う中で自然人一体になっています。自然との共生の中で日本の風土を顕したものが和なのです。そしてその和には、連綿と受け継がれている御縁や繋がりが存在します。その太古の昔から日本人が自然を深く敬愛し、自然の中から学んだ共生の法理、その実践がかんながらの道です。

それらの悠久の歴史の中で、私たちは「和する」ということ、調和し平和することの真心を感じてきました。それは「福する」と言い換えてもいいかもしれません。自然のままにあるがままに生きていけば自ずから全て調和することができるという意味です。

それを間違えるのは人道に反することを行うときであり、我慾や己に負けてしまうときです。そうならないように自然から離れず謙虚に学んできたのが「和の精神」です。今、時代は西洋の考え方を取り容れすぎたために自然を征服しようとまで考えが変わってきました。自然から離れ自然を管理し、人間が傲慢になってくればそれは「和」とは程遠いものになります。

和の文化が消失するのは、この自然から遠ざかることを意味します。先祖たちは数々の道具を自然と一体になって産み出しました。その感性はまさに調和する道具たちであり、その道具たちが周りの道具と一体になるとまるで自然の叡智の中にいるかのようです。この安心感は心を癒し、寛ぎを与え何よりも静けさや穏やかさといった心の平和をもたらしてくれます。和の家や和の部屋に居るだけで、心が穏やかになり静寂が訪れます。

もう一度、日本人とは何か、日本文化とは何か、自らが暮らしの実践を通じてそれを体現していくことです。和風というものは、その生き方を実践する人たちが醸し出した生き様のことでありその生き様が文化継承のカギになるように私は思います。

子ども達のためにも、和をもって貴しとなすような生き方を今の時代の責任を担う世代の責任者として少しでも道を歩みカタチに遺して譲っていきたいと思います。

 

明るさとは

人は向き合うことで成長しますが、向き合うというのはとても前向きなことです。なぜならそれは素直であるときにはじめて向き合えるからです。素直さとは何か、それは物事の善い方をみて全てを必然としてその境遇を受け容れて感謝に高めていくことのように思います。

素直ではない人は、物事のマイナス面や悪い方ばかりをみてしまいます。そして不平不満や文句、言い訳をします。もしくは自分に都合の良い解釈ばかりをしては思い込みの中に閉じこもっていくものです。しかし実際に起きた出来事は、自分を磨くための砥石であり本当の自分に出会うキッカケでもあります。

その一つ一つのどのように向き合っていくか、そこには素直さや明るさ、前向きさ、そういうものが必要なのです。つまりは素直というのは根が明るいことをいい、従順であることが素直というわけではないのです。

根が明るいというのは、どんなことがあってもどんな境遇化でもそれを学んでいこう、もっと善いことにしていこう、きっと善いことになるといった信心を優先しているということなのです。なんでも楽しんでいく心は、発酵する心と同じです。どんなことがあっても笑っていく、どんなことがあっても嬉しい楽しいしあわせと唱えて歩む人が素直なのです。

稲盛和夫さんにこういう言葉があります。

『常に明るさを失わず努力する人には、神はちゃんと未来を準備してくれます。』

これは前向きに明るく信じている人は、信じているうちに必ず次の準備をしてくれているということです。後ろ向きで暗く、疑いを持っている人は疑っているうちに自滅したり自暴自棄になって未来を先に放棄しているのかもしれません。

しかし誰しも最初から素直になるのではありません。強く優しい人に成るために、徳を磨き立派な人格を醸成していくために様々な出来事を通じて素直を学んでいくように思います。

つまり人生の中で七転び八起きしながら素直を磨いていくということです。そこで何よりも大切になるのは、「明るさ」だということです。明るい人の周りには明るい人が集まってきます。仕合わせな人の周りにも仕合わせな人が集まりますし、楽しい人の周りも楽しい人が集まってきます。暗い人には人は寄ってきませんし、自分も寄り付きたくありません。

自分の生き方が、自分の周りも決めていきますから自分の人生を自分の運命をどのように生きていくか、その時々にどのような生き方を優先するか、何を選択するかは自分のことだから自分次第なのです。

ここでの明るさの定義は、どんな時でも明るい太陽のような真の明るさです。太陽のような陽徳をもてるように、日々にお天道様に祈り、お天道様の教えや導きを感じ、お天道様をお手本に強く明るく逞しく生きていく人には常に希望に満ちた未来が見えているように思います。

先人たちの生き様から今の生き方を学び直して、素直を磨いていきたいと思います。

 

 

フツウとは何か

世の中には「フツウ」という刷り込みがあります。自分は人とは違わない、もしくは同じであると思い込み、自分はフツウだと信じているものです。何がフツウなのか、毎回フツウの話をしていると疑問に感じるものです。世の中ではこのフツウのことを、常識的にはとか、こうするのが当たり前、平均的にはとか、無難に考えるとという前置きがあります。

しかし、世の中をもう一度ゼロベースで見渡せばこのフツウなるものは存在せず全てのものはフツウではないのです。それに誰かが信じているフツウは、人それぞれでフツウではないのです。このフツウを押し付けはじめると、組織を含め人間関係では本質的な対話が難しくなります。フツウという概念を自分が持っていないか、そこを見つめることから自分の刷り込みに気付いていくのがいいように思います。

例えば、日本では常識であることは他の国では非常識であることがあります。本人が産まれ育った環境の中では一般的だったことは、別の環境に移ればそれが異常であることがあります。これは誰にしろ言えることで、家庭環境が違ったり今まで育ってきて身に着けてきた価値観がその人の中の常識になります。

しかし一歩外に出たり、新しい環境の中で何かをやろうとすればそれぞれに常識をもっていますからそれがぶつかり合うのです。御互いに自分が間違っていないと相手を変えようとすれば相手は頑なに変わらず、こちら側も苦しい思いをするものです。そして相手も自分が間違っていないと常識に縛られれば相手の異常さに辟易するものです。御互いに常識という武器を使って相手に負けまいとして常識の声はどんどん大きくなります。どこからか世間一般、その他大勢の理論をかざしても、本質からズレていたらその常識は結局は通用しないだけではなくあべこべなことを言っているだけになるのです。

このみんなこうしているや、自分は常識的だとか自分を思い込むところにフツウの落とし穴があるように思います。最初から自分は変わっているからや、みんなそれぞれに価値観が異なり個性があるからや、持ち味が違うからと信じていればあまりフツウであることに固執することはありません。

人はフツウという言葉で大事なものを失っているように思います。与えられたものや授かったものに感謝することや、他の人とは異なる自分の天命があることを知ることや人がそれぞれに異なる生き方があっていいと寛容に許すことなどが失われているようにも思います。

一斉画一にフツウを押し付けるのは、それぞれの人たちが持つ大切な役割を気づきにくくするだけではなく変化を恐れさせる理由にもなります。フツウはと思うのではなく、本質的にはどうか、理念から考えたらどうかと自分の刷り込みを取り払うことから常識は崩せるように思います。

変化は常識を壊すことですから、常に自分の中にあるそれまでの認識を刷新していく挑戦を続けていくことで温故知新していけるように思います。時代は変わっていきますし、日々に変化は已みません。だからこそ周囲も色々というし、周りの人たちのことを考えて周りの目をみてやらないことは思いやりではないかもしれません。敢えて自分から変人になっていくことは怖いことだとも思いますが最初の一人になる勇気を出して新たな常識を産み出していくところに社會の変化成長、進化があるように思います。常に自己革新はフツウをなくしていくことだとし、新たな変化を創造し続けていこうと思います。

場とは何か

日本の文化の中には、「場」という概念があります。最近ではパワースポットなどとも呼ばれ、その「場」にいくと不思議な力が宿っていてそこで何らかの力が引き出されていくと考えられています。

この「場」には何があるのか、そこにはその「場」を創りだしている意志があります。それを少し深めてみたいと思います。

例えば、ある組織の集団においてその集団をファシリテーションする人の存在はとても大きなものです。学校でいえば先生などがそれにあたります。幕末の松下村塾などは、吉田松陰という人物が志を掲げ塾を通して「場」を顕現しました。その「場」には志士が誕生し、沢山の同志たちが集まってきました。それもまた吉田松陰という生き方や意志が「場」に反映されているとも言えます。

先ほどの組織に戻れば、組織をファシリテーションする人物の思想や生き様、生き方や信念、その姿勢や実践がその周囲に「場」を産み出していきます。この「場」というものは、直接的に発生するのではなく間接的に発生していくものです。それは言い換えれば、祈りによって物事が成就することにも似ています。祈りというものは、神仏に祈るのですが祈っているうちに信じる力が備わってくると自分以外の他力によって物事は解決していきます。ここには直接的に自分がやってあげたり自分が何かをしなくてもその祈りによって時間が自然に物事を解決していくのです。そういう体験をしたことがある人は少なからず存在しているように思います。

これなどは先ほどの「場」に意志が働き間接的な力が引き出されて物事が好循環していくのですがその場作りをする人の意志がとても重要になるのです。

別に特別な力を感得していなくても、産まれてきたことや育ててもらったこと、今生きていることや授かっている全てが「何ものか」によって与えていただいたものだと感じるときそこに御蔭様といった「間接的な力」を感じることができるはずです。

この間接的な力は、意志によって左右されます。その人の理念、信念、初心、生き方、生き様、覚悟、大義によって「場」が創出されるのです。この場のことを別の言葉で言い換えれば「想念」と呼んでもいいのかもしれません。

どのような想いとどのような念を抱き生き続けているか、その意志を継ぐ者たちによって場が永遠に受け継がれて益々場はチカラが漲ってきます。パワースポットには、その太古から連綿と続いてきた意志の場が遺っています。その意志の場に自分を運べば、その意志の力の影響を受けて自分の内面にあるものが引き出されてきます。そこには間接的な力の密集地帯であり、その間接的な力を得て人は元気を取り戻すのです。

私たちが取り組む聴福人の実践もまた、この「場」をファシリテーションしていることと同じです。どのような場を創出するか、それは聴福人をする人物の想念に懸っています。その想念をどれだけ真摯に抱き、そこに「場」を創出するか、それはそこで働く人たちの気づきの集積と理念の反復、そして素直な内省によって育まれていきます。

「場」さえ出来上がってしまえば、あとはそれを受け継いでくれる存在が永遠に発展させてくれます。常に間接的な力によって物事が動いていくことを信じて、どんな想念を持つか、そしてどんな場をつくっていくか、日々に御縁を味わっていきたいと思います。

安心基地と平常心

人間をはじめすべての生き物は、それぞれの持ち味を活かして才能を発揮して生きています。如何に自分の能力が周囲に活かせるか、特に集団で共生する人間にとってはその力はとても重要です。

そしてそのパフォーマンスの良い状態を如何に持ち続けるかで個人をはじめチームとしての協働が効果的になり最高の力を発揮していくのです。その状態になるにはどうしたらいいか、それは安心を如何に創りだすかのように思います。

藤森平司先生が、見守る保育の中でよく安心基地という言葉を使われます。具体的には、子どもが意欲や好奇心を持つための安心基地が必要で、子どもが大切にされているという気持ちが持てるように、求められた時にはいつでも手が差し伸べられるような「保育」の精神そのものであるといいます。

この安心するということが如何に自分のパフォーマンスを高めるかは、あまり大事にされてきていなかったように思います。不安を解消するために動いていたら、そのパフォーマンスは自分だけが下がったのではなく周囲も下げてしまいます。自分が安心することで周りが安心し、自分を含めて周りも自信がつくものです。しかし自分が不安であれば周りの自信をも奪ってしまいます。

そして人は安心する存在がある人ほど、その人は自分の実力を存分に発揮していくことができます。これは子どもだけではなく大人においても「自信」を持つということが如何に大切かわかります。

自信を持つためにも安心基地は必要であり、それは一つの生き方モデルを持っている人を手本にしてもいいし、いつも助けてくれる仲間があってもいい、もしくは王道を歩む師匠や、陰ひなたからいつも見守ってくれているメンターがあってもいい、その人が安心するものを持つことでその安心が自信につながっていくのです。

その人の不安をどう拭い去っていくか、それは抜苦与楽にあるように思います。人の不安はどこからくるか、それは心から来るものです。そして過去の失敗やトラウマ、そういうものが棘として引っかかっておりそれが抜けなくて苦しむのです。もしくは、何かしらの我執や執着を持っているから余計にその苦しみが大きくなっているのかもしれません。

そういう人たちの力になり、自信になり、不安を消すというのは発想を転じて福にしたり、どんな時でもこの人が援けてくれるという絶対的な信頼を築き上げることでそのトラウマや不安は小さくなって安心が増えていきます。将来的には不安が気にならないようになればなるほどに、その人やチームのパフォーマンスは常に好循環に入り目的や目標は自ずから達成されます。

まず聴福人の実践するのは、その不安に寄り添うことです。そして自分の心配するまのないくらい真心を盡していくことです。実践はシンプルですが、それは日頃からの自分の心の状態の維持、つまり安心基地と平常心が大切になります。

子ども達に見守るを広げていけるよう、大人たちからお手本になるような見守りを実践していきたいと思います。

伸びるチカラ

変化と成長というのは、日々に地球が廻る様に私たち人間も前進していくことに似ています。自然界も同じく、変化成長を已みません。同時に私たち人間も日々の仕事や出来事、様々な御縁や出会い、挑戦によって変化成長していかなければ時代の流れに取り残されてしまいます。

結局、変化とは人格形成をしていくことであり如何なる出来事に対していかなる人格を磨いたかということが変化と成長には深く関わっているのでしょう。

先日、お客様から興味深い御話をいただきました。

常に物事はその良し悪しや好き嫌いに関係なくどのようなことが起こったとしてもそれは自らの人格を高めるために起きた出来事だとし、その出来事に素直に向き合ってその出来事を受け止めるということです。

そのために必ず行わなければならない3つのことがあるといいます。

  • 人や環境のせいにしないこと。
  • 人と比べないこと。
  • 人の悪口を言わないこと。

つまり言い訳をせずに誰のせいにもせず、何ものとも比較しないということです。これは斜に構えないという言葉の代わりでもあるように思います。何でも斜に構え受け止めないで流していたら、いつも物事の本質やその物事が発生した理由などは考えず、現実から逃げ言い訳ばかりに終始していたら自分が変わる機会を失ってしまいます。

人は自分にとって都合が悪い出来事があるのは、自分の自我欲や執着に気づきそれを手放す機会でありそして自分のとって面白くない出来事があるのは、自分に沁み付いた生き方の癖を直す機会です。

そういうものを如何に受け止めるかで人間の変化と成長が変わってくるように思います。そしてなぜ人間力が必要か、それは周りは変えられず自分の見方を換え変わるしかありませんから徳がいるのです。この徳というのは、人が道を歩み続けて変化成長を已まないことで磨かれて研ぎ澄まされていきます。この徳が磨かれて高まれば、どんな出来事があってもそれを丸ごと前向きに信じることができ、そしてどんな事件があったとしてもそれを全て有り難い御蔭さまと感謝で祈ることができるようになるからです。

人間は産まれてから死ぬまでずっと精進が必要なのは、変化成長こそが生きる意味につながっているからです。もし世の中に成功の秘訣があるとするのなら、それはこの変化成長を已まないことのように私は思います。誰かのマイナスや、言い訳、そして比較をするとき人は「必ず停滞」します。それは変化成長を自らがとめてしまっているとも言えます。だからこそ、誰かのプラス面を観る、そして言い訳をしないで受け容れる、さらには自分の信念や天命を優先し、理念を自分らしく遣り切れば必ず成長と変化の流れが進み時間が物事を解決してくれるように思います。

時間も流れ世界も循環しますから、大事なのは成長と変化をし続けることのように思います。この変化と成長、つまり伸びるチカラこそ変化成長の根源です。日々に来たものを選ばずに、ど真剣に全てのことにニコニコ顔でいのちがけでやってみてそれをじっくりと省みて味わっていきたいと思います。

春の風~息吹きの徳~

先週末に自然農園に出て、また今週末に同じく農園に出てみると畑の様子が一変していました。この一週間で、野菜をはじめ雑草、草花が急成長し見違えるほどに大きくまた数が増えていました。

自然界の景色は、冬草が枯れ果てすべて春草に変わります。虫たちもこんなにも増えるのかというくらい、小さな蜘蛛や小さなバッタ、オタマジャクシや蝶に蜂、その他の名を知らない小虫を含めれば膨大な量の虫たちが誕生しています。まさに「春が咲いた」様子に、春の陽気の持つ勢いを感じました。これは都会にいては分からない変化であり、手作業で土を触っているから気づく実感でもあります。

この一週間の私の感じる変化と言えば、春風です。

私は風を感じる性格が強いらしく、風を身体に通すことでその風によって季節感を味わいます。秋の木枯らしもこの春風と同じ性質がありますが、季節の今と変化のタイミングを自然から感じ取ります。どの時期に種を蒔けばいいか、この季節の風を感じる力によって私は動きます。先週から今週にかけて、たくさんの種を蒔きました。この季節の変化の時機は、種が芽を出す最幸のタイミングなのです。

そして春の風が吹く時、それまでの冬たちがいなくなるのは風によって吹き清められるからです。強い春一番が吹き荒れるころ、桜の花は舞い散ります。そしてそれは今までの枯葉も同時に舞い散り、森には膨大な落ち葉が落ちていきます。その落ちた枯れ葉の下では、新しい息吹が芽生えその落ち葉によって春のめぐりの循環が開始されていくのです。

季節を動かすのは風であり、その風は地球が吹いてくる風です。その風には意志があり、人間が呼吸をするように吐いてから吸う、吸ったものを吐くを繰り返します。春に吐きそして秋に吸う、季節のめぐりと人間の呼吸は同一であることが分かります。

この地球の吐息が、風になりその風を受けていのちは燃えていきます。この燃える気は太陽の徳と同じく陽徳です。陰陽の世界も同じく、そこには風と水が関わっています。

話を戻せば、春の風が吹くときそれは季節が変わるときです。そして穢れを祓い清め自然調和をはじめます。自然調和し、それまでの陰陽善悪すべてを福にしてまた新たな活動をはじめていきます。

福を味わうためにこれらの季節が変わったことを風によって心身に伝え、新しいいのちの一年がはじまるのを感受することで自然のリズムに沿った状態をつくっていきますっています。人間は心地好い風にゆられているとき、福を味わうのです。これは自然界万物のいのちは皆同じです、人間も大きな目でみれば大自然、地球や宇宙の一部ですからその一部が全体と繋がっているのは自明の理です。

全体の流れに従い、万物の循環に沿い、天命を盡していきたいと思います。自然こそ私たちの先生であり、全てのお手本です。学び直しを深めてものにし、それを実践でカタチにしていきたいと思います。