人間は志や目的、目標や夢の大きさによって物事の取り組み方や見え方が変わっていくものです。人それぞれ同じことをやっていたとしても、その志がどうなっているかでそのやることは変わっていきます。
田坂広志さんに「二人の石切り職人」という寓話の話があります。以前、お聞きしたときには観得なかった世界が今ははっきりと私も観えてきました。如何に志を抱かせることが大切か、何よりその人が一隅を照らしたいと願うようになるか、その発心の大切さを深く感じるようになりました。改めてその話を紹介します。
「二人の石切り職人 」
「旅人が、ある町を通りかかりました。
その町では、新しい教会が建設されているところであり、
建設現場では、二人の石切り職人が働いていました。
その仕事に興味を持った旅人は、
一人の石切り職人に聞きました。
あなたは、何をしているのですか。
その問いに対して、石切り職人は、
不愉快そうな表情を浮かべ、
ぶっきらぼうに答えました。
このいまいましい石を切るために、
悪戦苦闘しているのさ。
そこで、旅人は、もう一人の石切り職人に
同じことを聞きました。
すると、その石切り職人は、
表情を輝かせ、生き生きとした声で、
こう答えたのです。
ええ、いま、私は、
多くの人々の心の安らぎの場となる
素晴らしい教会を造っているのです。
どのような仕事をしているか。
それが、我々の「仕事の価値」を定めるのではありません。
その仕事の彼方に、何を見つめているか。
それが、我々の「仕事の価値」を定めるのです。」
これが二人の石切り職人の話です。この話は、志の話です。あなたの志は何かと質問されたとき、その志をどのようにその人が語るのか。それによって仕事の価値が定まる。つまりは志の中身がどうなっているのかが先で、仕事の技能や実践は後からついてくるのです。本来、何のためにやるのか、その人の志が育っているのなら必ずその仕事は価値があるものになっていくということです。
吉田松陰に「志を立てて、以って万事の源となす」 があります。その人が一生の一度の人生に何を成し遂げたいか、それさえ立てられるのならそれが全ての根本になるということです。もしその成し遂げたい志に出会わずに進むのなら、私利私欲や自我慾に負けて狭い世界で迷い惑い続けて自分の人生を歩むことを忘れてしまいます。そうならないためにも、初心や原点といった志をその人がまず立てることが大切なのです。
吉田松陰は「志定まれば、気盛んなり」とも言います。この「志を定める」ということの真価、そこに人生の全てが凝縮され方向性が決まってしまうのです。結局は、人に成るとは何か、成人の本質は志を抱く人にすることなのです。
私は足元にあるものに気づかず、随分と遠回りしてきました。教育は引き出すものだということは知っていても、何が引き出すのかまでははっきりと自覚していませんでした。今こそ確信するのが志こそ万物万事の根源であり、その志を立てることができるようにし志を抱いて生きる手助けと手伝いをするのが私たちの伝道でもあります。
子ども達に未来を譲っていくためにも、今の時代の人たちが一人でも多く自分の志に気づき、その志に生きた背中を遺していくことが世の中を今までよりもっと善くしていくことになります。
いのちを活かし使命感を持たせることは、本物の人をつくっていくことです。本物の人とは志を持つ人にしていくことです。未来の子ども達のためにも、自分が何が本業かを間違えないように真摯に志を実践し弘めていきたいと思います。