昨日、社内の今年の取り組みとして「祭り部」ができました。昨年は「駅伝部」ができて、朝練をはじめ各地の駅伝に参加したり現地の志ある会社を訪問したり、その地域の歴史や生き方、人々や場に触れたりして愉しみ学びを深めましたが今年は「お祭り」を通じてまた新たな社内での実践を象っていくことになりそうです。
先人たちが遺してくださった叡智や智慧に触れることは、自分たちの歴史やアイデンティティがどうなっているのかを自明することにもなり、子ども達に先人たちの願いを繋いでいくことにもなります。今の時代を生きるものとして、何を遺し何を譲るか、それを先祖に学ぶことは何よりも大切な使命のひとつです。毎年、その時々で必要なテーマが降りてくるということはそれだけ前年のテーマが充実していたということです。そうやって哲学や思想がはっきりと明確になり、その明確になったものがテーマになりそのテーマによって人は創造や革新が促されます。
今年は「祭り」になりましたが、祭りというものが何か少し整理してみます。
古事記に本居宣長が祭りとは何かをこう言います。
「祭事(まつりごと)と政事(まつりごと)とは同語で、その語源は奉仕事(まつりごと)から来たのであろう。天皇に仕え奉ることを服従(まつろう)と言い、神に仕えることを祭りと言うも、本は同じである。」
他にも中国の漢字を分解するとこの「祭」という漢字は夕(肉)と又(右手)と示(神示)から成り立ち、右手の肉を持って神にささげる意味です。祀は示(神)に巳(シ)を付けた字で、祭・祀はどちらも神様にささげるという意味になります。
古語辞典「字訓」を書いた白川静氏はこう言います。
「神のあらわれるのを待ち、その神威に服することをいう。「待つ」と同源の語。祭酒を「待酒」という。まつりのことをまた「まち」「日まち」のようにいうところもある。」
古代の神道は、祭政一致であり人々は日々の暮らしを神様に委ね神様の声を聴きながら生活を営みました。神様の声を聴けるというのは、いのちを常に感じてそのいのちを活かしていたからこそ話ができたとも言えます。その一つの神事として「お祭り」があり、お祭りを行うことで穢れを祓い清めたとも言えます。
この「祭り」を「待つ」と同源の語であると言います。私も待つことは信じ切ることで、丸ごと信じていることですから待つことで出づるのを静かに待つという心境は神様を奉る依代としての御役目として必要なことのように思います。
同時に神様が訪れるのを待つ、しかしそれをどのように待つのか、そこに待ち方というものがあると思います。その待ち方こそが祭りの本質であり、ただ待てばいいのではなく神様が顕れるのをどのような姿勢で待つのか。つまり自分たちの中から神様が出てくるのを静かに待つのです。古来、私たちは八百万の神々であり、一人ひとりが魂と命を持っています。だから親祖や先祖の神様たちは自分たちのことを「尊」をつけて尊称するのです。
その尊が出てくるのを待つのに、善いところを観る、信じて観る、素直に明るく、清らかな心になっていくようにして自分の中から出てくる神様と同じ心が顕れるのをみんなで「祭る・祀る・待つ儀式」を行ったのではないかと私は思うのです。
私たちが実践している一円対話においても、御互いが認め合い尊重し受容して清浄で無邪気な場が出来上がると神がかっているような言葉が発言者から出て来ます。これも一つの「お祭り」であり、そのことで人々が素直になり本来の真心や初心を思い出されるのです。
人が初心を思い出すためにお祭りがあり、お祭りを通して一体自分たちは何を大切に生きていけばいいかを反復して理解していく。単なる西洋からきたイベントではなく、日本のお祭りはとても精神的な意味や生き方を観直す内省的な意味を持っているのではないかと感じています。つまり神人合一していくところに、その本質があったのではないかと私は思います。
今年はそれを改めて学び直し深めていく機会をいただけそうです。引き続き、本業であり志業である子ども第一義の理念を自他一体、理想現実一致にしていくためにも一円融合、全てを福に転じて発明を続け実践を弘めていきたいと思います。