神話の時代、私たちの先祖たちが暮らしていた時代は自然に沿った暮らしをすることは当たり前だったように思います。自然の廻りの中で、春夏秋冬、季節の準備や生活道具の準備、その他、様々な食べ物の調達や保存をしながら他の生き物たちと一緒に日々を味わい繋ぎ過ごしていたように思います。
今の時代は、自然に沿わなくても一年中食べ物が豊富にありますし建物の中にいて空調器具を使えば一年中同じ温度で過ごせます。また時間がキメ細かく設定され、スケジュールが決められその通りに進められます。動物や虫たちは生活圏内から姿を消し、植物はコントロールされて栽培されています。
人間の思い通りになる世界というものの中にどっぷりと入り込んでしまうと、自然に沿うということはなくなっていくのかもしれません。人間にとっての便利さを追求しているうちに、不便さの代表のような自然は遠ざけたい存在だったのかもしれません。
しかし自然に沿う暮らしを手放すことで私たちはとても大切なものを失っていくように思います。それは何か、それは自然への畏敬を忘れてしまうことです。そして自然への畏敬とは何か、それは全ては自然のハタラキで私たちが活かされていることを感じなくなることです。それは信じる世界の消失であり、本来の絶対的な安心を手放していくことです。
最近、祭りを深めていく中で気づくのは自然(神様)に祀ろうということの意味です。古代から人々は自分たちが自然の一部として存在し、自分たちをいつも陰ひなたから助けてくださっているのは自然(神様)であると信じていました。これを私は「かんながらの道」の実践の一つだと感じていますが、本来、自分の力などはなくすべては自然のチカラが働き事が為るという発想を持っているということです。
言い換えれば、その頃の人々は自然(神様)の御蔭様を沢山授かることができたことが実力であったのです。だからこそ、自然に沿うように、自然に間違えないように心を清め、素直に正直に純粋に自然の流れが読め、自然と一体になって自分たちが邪念や邪気、我慾などに流されないように創意工夫を施していたように思います。祭りなどはその最たるもので、全国約30万種以上ある日本の祭りはかつての私たちの先祖が常に自然に寄り添って暮らしてきたことの証明でもあるのです。
自然に沿うためには、自分というものを一度見直す必要があります。そして自信というものの本質を改め直す必要があります。自分とは自然の一部であることを決して忘れず、自信とは自分の力ではないという御蔭様の本質を悟ることです。なぜなら自然の一部である時が素直になるときであり、御蔭様の御力を感じるときが謙虚になるときであるからです。
私たちの先祖たちが永らく暮らしてきた自然の暮らしは、とても素直で謙虚だったように思います。そういう暮らしはとても心の安静がありまさに平和で幸福な楽園だったような気がします。かつてできたその暮らしは今ではもう取り戻せないのでしょうか、時代は次代に受け継がれていますが大切なものを失わないように繋いでくださった文化はまだまだこの国の端々に遺っています。
その一つ一つを結び付け、かんながらの道を譲っていくこともまた子どもを深く愛し慈しむことのように私は思います。自然から学び直すことができることは有り難いことで、自然そのものが先祖一体ですからいつまでもなくなることはありません。
刷り込みを取り払い、刷り込みに気付いてどのように現代で折り合いをつけるか。まだまだ実践によって深めて融和していきたいと思います。