世の中には「フツウ」という刷り込みがあります。自分は人とは違わない、もしくは同じであると思い込み、自分はフツウだと信じているものです。何がフツウなのか、毎回フツウの話をしていると疑問に感じるものです。世の中ではこのフツウのことを、常識的にはとか、こうするのが当たり前、平均的にはとか、無難に考えるとという前置きがあります。
しかし、世の中をもう一度ゼロベースで見渡せばこのフツウなるものは存在せず全てのものはフツウではないのです。それに誰かが信じているフツウは、人それぞれでフツウではないのです。このフツウを押し付けはじめると、組織を含め人間関係では本質的な対話が難しくなります。フツウという概念を自分が持っていないか、そこを見つめることから自分の刷り込みに気付いていくのがいいように思います。
例えば、日本では常識であることは他の国では非常識であることがあります。本人が産まれ育った環境の中では一般的だったことは、別の環境に移ればそれが異常であることがあります。これは誰にしろ言えることで、家庭環境が違ったり今まで育ってきて身に着けてきた価値観がその人の中の常識になります。
しかし一歩外に出たり、新しい環境の中で何かをやろうとすればそれぞれに常識をもっていますからそれがぶつかり合うのです。御互いに自分が間違っていないと相手を変えようとすれば相手は頑なに変わらず、こちら側も苦しい思いをするものです。そして相手も自分が間違っていないと常識に縛られれば相手の異常さに辟易するものです。御互いに常識という武器を使って相手に負けまいとして常識の声はどんどん大きくなります。どこからか世間一般、その他大勢の理論をかざしても、本質からズレていたらその常識は結局は通用しないだけではなくあべこべなことを言っているだけになるのです。
このみんなこうしているや、自分は常識的だとか自分を思い込むところにフツウの落とし穴があるように思います。最初から自分は変わっているからや、みんなそれぞれに価値観が異なり個性があるからや、持ち味が違うからと信じていればあまりフツウであることに固執することはありません。
人はフツウという言葉で大事なものを失っているように思います。与えられたものや授かったものに感謝することや、他の人とは異なる自分の天命があることを知ることや人がそれぞれに異なる生き方があっていいと寛容に許すことなどが失われているようにも思います。
一斉画一にフツウを押し付けるのは、それぞれの人たちが持つ大切な役割を気づきにくくするだけではなく変化を恐れさせる理由にもなります。フツウはと思うのではなく、本質的にはどうか、理念から考えたらどうかと自分の刷り込みを取り払うことから常識は崩せるように思います。
変化は常識を壊すことですから、常に自分の中にあるそれまでの認識を刷新していく挑戦を続けていくことで温故知新していけるように思います。時代は変わっていきますし、日々に変化は已みません。だからこそ周囲も色々というし、周りの人たちのことを考えて周りの目をみてやらないことは思いやりではないかもしれません。敢えて自分から変人になっていくことは怖いことだとも思いますが最初の一人になる勇気を出して新たな常識を産み出していくところに社會の変化成長、進化があるように思います。常に自己革新はフツウをなくしていくことだとし、新たな変化を創造し続けていこうと思います。