人は向き合うことで成長しますが、向き合うというのはとても前向きなことです。なぜならそれは素直であるときにはじめて向き合えるからです。素直さとは何か、それは物事の善い方をみて全てを必然としてその境遇を受け容れて感謝に高めていくことのように思います。
素直ではない人は、物事のマイナス面や悪い方ばかりをみてしまいます。そして不平不満や文句、言い訳をします。もしくは自分に都合の良い解釈ばかりをしては思い込みの中に閉じこもっていくものです。しかし実際に起きた出来事は、自分を磨くための砥石であり本当の自分に出会うキッカケでもあります。
その一つ一つのどのように向き合っていくか、そこには素直さや明るさ、前向きさ、そういうものが必要なのです。つまりは素直というのは根が明るいことをいい、従順であることが素直というわけではないのです。
根が明るいというのは、どんなことがあってもどんな境遇化でもそれを学んでいこう、もっと善いことにしていこう、きっと善いことになるといった信心を優先しているということなのです。なんでも楽しんでいく心は、発酵する心と同じです。どんなことがあっても笑っていく、どんなことがあっても嬉しい楽しいしあわせと唱えて歩む人が素直なのです。
稲盛和夫さんにこういう言葉があります。
『常に明るさを失わず努力する人には、神はちゃんと未来を準備してくれます。』
これは前向きに明るく信じている人は、信じているうちに必ず次の準備をしてくれているということです。後ろ向きで暗く、疑いを持っている人は疑っているうちに自滅したり自暴自棄になって未来を先に放棄しているのかもしれません。
しかし誰しも最初から素直になるのではありません。強く優しい人に成るために、徳を磨き立派な人格を醸成していくために様々な出来事を通じて素直を学んでいくように思います。
つまり人生の中で七転び八起きしながら素直を磨いていくということです。そこで何よりも大切になるのは、「明るさ」だということです。明るい人の周りには明るい人が集まってきます。仕合わせな人の周りにも仕合わせな人が集まりますし、楽しい人の周りも楽しい人が集まってきます。暗い人には人は寄ってきませんし、自分も寄り付きたくありません。
自分の生き方が、自分の周りも決めていきますから自分の人生を自分の運命をどのように生きていくか、その時々にどのような生き方を優先するか、何を選択するかは自分のことだから自分次第なのです。
ここでの明るさの定義は、どんな時でも明るい太陽のような真の明るさです。太陽のような陽徳をもてるように、日々にお天道様に祈り、お天道様の教えや導きを感じ、お天道様をお手本に強く明るく逞しく生きていく人には常に希望に満ちた未来が見えているように思います。
先人たちの生き様から今の生き方を学び直して、素直を磨いていきたいと思います。