かつての日本では、伝承されてきた先人たちの暮らしをどのように子孫へ譲り伝えていくか、それを様々な方法で伝承してきました。しかし今では「農」という字は、単なる農業の農のみで語られ田畑を耕して作物を育てる職業の人を農業人などといったりします。しかし本来の「農」は単に作物を育てればいいのではなくその生き方が「農」であったということを示すものです。この「農的暮らし」というものは、如何に自然に沿って自然と調和して生きていくか、その自然循環の理念に完全に合致しているという意味で農であったと私は思います。
「農」の解釈として101歳になる元ジャーナリストのむのたけじさんが「いのち守りつなぐ世の」の中でこう書いています。
『「農」という字の語源は、「曲」と「辰」に分割けられる。そして、上層部の「曲」はもともと「ねばつく」という動詞。ニクズキを付けると「膿」になるが、これはネバネバしているはずで、膿のようにネバネバするものを「土(つち)」として表現している。そして、下層部の「辰」であるが、十二支の1つになっているものの、もともとは大きな二枚貝である。(その性質から「整う」という意味で用いられ、後で架空の動物の「龍」を割り当てたようである)この大きな二枚貝は、鍬が発明される前は、この貝で土を掘り起こし、細かく砕いていたそうである。貝の硬さはいくつもの層から形成されることから裏打ちされ、それが火にも水にも強い自然界の芸術なのである。』
自然界の芸術を扱う人たちを農民とも言えます。自然界の様々なものを活かし、それを感謝で使っていく。本来、私たちはこの地球に住ませていただいている存在、この地球の中で生かされている存在だと原点回帰すれば自ずから農的な暮らしを優先していくことの必然を感じるように思います。文明が発展し、人間ばかりの都合で世界を開花させていくうちに大切なことを忘れないように古来から工夫は尽きません。
以前、信濃の上伊那の歌人宮下正岑(1774⁻1838 江戸後期の歌人)に『勧農詞』というものを拝見したことがあります。まさにこれこそ農的暮らしの本質であると感心して、メモを取りました。これを家訓にして大切にしている農家も多かったと言います。
『風流を楽しむ花園ならで、後の畑、前の田の物作に志し、自ら鍬を採って耕し、先祖の賜と命の親に懇と尽くし、吉野の桜、更科の月よりも、己が業こそたのしけれ。朝夕心を留て打むかふ菜種の花は、井手の山吹より好しく、麦の穂の色は牡丹芍薬より腹こたえありと憶え。朝顔より夕顔こそよけれ。萩桔梗より芋牛蒡に味あり。渾て花紅葉より栗柿ハ宝の植木なり。稲の穂並み賑しく菊の花より腹満る心地して、栗穂に馴る鶉野辺の喜の音聞くか。面白く遠き名所旧蹟より近き田圃の見廻りか。飽す松島塩竃の美景より飯釜の下肝要なり。上作の名剣より鎌鍬は調法なり。書画の掛物より、掛て見る作物の肥を油断せす投入れて、生花の工より茄子さゝげの正風なるか。見處多く、茶の湯、蹴鞠の遊より渋茶を飲んで昔話こそ楽しけれ。玉の望より茅葺の家に居か心易く。高きに居らねば落るあぶなげなし。迷はねば悟らず。念佛のかわりに業を怠らず。実義を尽すハ神詣に比し、仁者にならふて山に木を植え智者の心を汲て田の水加減を事にし、珍肴鮮肉の料理より銭いらすの雑炊が後腹病る気遣なし。すへて世の中ハ飛鳥の川の流れ。きのふの渕ハ今日の瀬となる如し。唐の咸陽宮、萬里の長城も終には亡に。平相国の驕も一世のみ。鎌倉の将軍も三代をすぎず。北条、足利の武盛尽き織田、豊臣の栄も終に一代なり。時過き世替れは誠に夢の如し。世に希なる珍味も舌の上にあるうち。伽羅蘭麝の薫りもかく内のみ。楽しみは苦の基ひ。財宝は後世の障り。遊興はしばしの憂。他の富みも羨ず。身の貧も嘆かず。唯慎むべきは貪慾と恐るべきは奢なり。抑(そもそ)も田地は萬物の根元にて、国家の主宝なれば父母の如く敬い、主君の如く尊み、妻子の如く育み、寸地をも捨てず、何処にても鍬先の天下泰平、五穀成就を願うより外更になし。』
もっとも印象深いのは後半の「そもそも田畑は地球万物の根源である、それがクニの宝であるから父母のように大切に敬い、天に仕えるがごとく尊び、家族のように大事に育て、わずかな土地をも粗末にせずに、いついかなるときも鍬先に世界の平和があることを念じ、五穀豊穣を祈ること以外ない」というところです。
自然への畏敬を忘れずに驕らず怠けず貪らずに、日々を清く明るく素直に暮らしていくことが尊い、つまり「農的」ということなのでしょう。
自然農を実践する中で、いつも感じることは悠久の生き方、永遠の篩にかけられても生き残る生き方を子ども達に譲り遺していくことの大切さです。つまり「農」こそ「暮らし」そのものなのです。引き続き、今年も稲や里芋を育てていきますが丁寧に見守り生き方を観直していきたいと思います。