昔の日本の家屋のつくりは今の時代の家屋と違って弱弱しくできています。障子やふすま、土壁にいたるまでありとあらゆるものが寄りかかっただけで壊れたり破れたりするものばかりです。
しかしそういう弱さの中で、ものを大切にする生き方が自然に身に着いてきたように思います。これは私も思い出せば虫で遊んでいるときに虫を不意に傷つけてしまったときの感覚に似ています。弱弱しさというのは、いのちに触れることであり自然はすべて大切に扱うということがどういうことかを学んだように思います。
日本のかつての家屋は、自然と一体になってつくられていました。何かの非日常の大きな災害があればすぐに被害を受けていたともいえます。しかし自然を畏れ、災害に備えるからこそいのちを存えてきたとも言えます。
自然を敵対し、自然に一時的に勝ったと思ってもそれはあくまで一時的であり大きな災害が緩やかな浸食には誰も勝つことができないのです。世界にあるものが必ず年月を経て風化していくことをみれば必ず壊れていくのは自明の理です。そうやって世界は循環を已みませんからこれは自然の姿だとも言えます。
その自然に逆らうのではなく、自然と一体になって生きようとするのが先人達の智慧でありそれが昔の家屋にはふんだんに取り入れられています。例えば、弱いといったさきほどの家具類は敢えて弱くつくることで手入れをするようにつくります。障子なども破れれば張替、傷めば取り換え、その都度手入れをすれば数十年、いや数百年でも持つのです。
今の時代の家屋は、手入れをしないでどこまで持つのかという基準でものづくりがされています。そして壊れれば捨てるのです。「捨てる」ことが前提でものづくりをしますから、壊れないもの強いものに固執するのです。
しかし本来、永く使えて丈夫なものと考えれば本質は弱いもののほうが強いし長持ちするのです。ただ前提が「捨てない」ということが基準になっています。そしてそれが「もったいない」という精神と密接につながっているとも言えます。
この前提をひっくり返さなければ強いものが弱いことに気づかず、弱いものが強いということにも気づかないのです。先人たちは、ものを粗末にはしませんでした。それだけものの価値に気づいていたとも言えます。また長い目でものを探していたからこそ、永い時間耐えることができる弱いものの扱いに慣れていたとも言えます。今の時代は短い目でしかものを探しませんから見た目ばかりにこだわり強度を強くしていますからものの扱いなど気にしなくなっています。
昔の家屋や道具、骨董と呼ばれるものは扱い方を間違えばすぐに壊れます。自分たちが扱い安いものを増やして道具を変えるのではなく、道具にあわせて自分たちが変わる方がいいと謙虚な生き方をしていたのが観えます。
自然を畏れる生き方とは、自分の方をサラリと変えてしまう生き方です。引き続き、復古創新を味わって学び直していきたいと思います。