福とは何か?

幸田露伴に幸福の三説というものがあります。運が善いと言われる人にはなぜか運が善くなる生き方があり、それらが運を高め運を好転させ続けているということです。この運が善いというのは、実際には何よりも大事なことで物事は自分以外の周りが動くことで自分の布置が決まっていきますから運を敵にしない人はみんな運が善い人だとも言えます。

では運を敵にする人とはどういう人でしょうか、運を敵にまわす人は幸福を私物化する人のことかもしれません。言い換えるのなら、業を重ね業に沈む人といってもいいかもしれません。自分の徳性に気づかず、無駄使いをし疲弊していく感じです。せっかく天から与えられたものがあったとしても、それを何に使うのかということです。

自然は自分の徳性を活かすとき、そこに運を与えるように思います。それは何のため自分が産まれてきたのか、そして何のために人生があるのかと真摯に向き合うとき自分の中に具わっている徳の存在に気づきます。その徳を磨き、その徳を育て、その徳を高めるとき運が好転していくように思います。

しかしその徳に気づかず、もしくはその徳を私物化し自分の欲望や自分ばかりのために使ってしまえば福はすり減っていきます。福がすり減れば次第に運が悪くなっていきます。運が悪くなってしまえば、どこかで徳に気づくまでなんども同じ生き方をしてしまうものです。

この世の中は気が付けば自分中心、自分勝手に私物化してしまうような機会ばかりが多くあります。そういう機会や知識に打ち克って、自分の初心や理念、理念を貫くために徳業を重ねるとき人は運がさらに開けて好くなっていくように私は思います。

幸田露伴の幸福三説は、一つ目は惜福。自分に与えられた福を大切に惜しむこと。二つ目は分福。自分に与えられた福をみんなと分け合う事。そして三つ目が植福。長い目でみて福を育てて続けていくこと。これらが幸福の人たちが実践している福の徳目であると言います。

これらを鑑みるとやはり福を私物化していません。福とは天地自然の恩恵ですからないものねだりをしてないものばかりを求める心に福を感じるチカラはありません。むしろ足るを知り、あるものを活かそうとするときにこそ福は感じられるように私は思います。

そういった前向きな考え、物事の善い方をみる肯定的な捉え方、ポジティブ思考、自然と一体になった信じる心が幸福に気付く感性を磨いていくのでしょう。

福とは、自然に具わった徳のことです。

自分も自然の一部ですから徳を持っていますし、この世の中に徳がない人は誰一人として存在しません。だからこそその徳を見出すことが教育の醍醐味であり、その徳を伸ばしていけるように見守ることが保育の本質のようにも私は思います。

引き続き、幸福の三説の実践を味わいながら子ども第一義の理想に近づけるために精進していきたいと思います。