物事には本筋というものがあります。それは良いか悪いかではなく、何のためにやるのかということです。その本筋と本質を議論することなく、いつも良し悪しばかりに時間を費やされていきますが本来何のためかは何よりも優先しなければ根本から考えることができません。
そういう意味では、歴史は本筋の学問であり何のために歴史があるのかを考えなければ人は学習しているとは言わないのです。過去の歴史の成功事例と失敗事例だけを集めて知識を勉強してもそれは歴史から学んでいるわけではありません。歴史から学ぶというのは、それまで伝承されてきた先祖たちの生き方を学ぶことです。その上で、不易と流行のように変えていくものは何か、変えてはならないものは何かを学び直して実際の暮らしの中に取り容れていくことです。
先日も復古創新を深めていく中で、考古知新という言葉にも廻り会いました。論語には温故知新とも言いますが、この古いものとは歴史のことです。何のために人間は生きるのか、人間は今までどのように暮らして生きたのか、その暮らしをみるとき私たちは生き方を見つめます。
その生き方を考える学問こそが考古であり、それを今の時代に置換してどうそれを反映させるかが知新なのです。それは別に古いものを使えばいいや古い家に住めばいいということではありません。時代が変われば道具も変化してきますから、別に今の道具を排除することが温故ではありませんし復古でもありません。
私たちの民族の精神性、大和魂とでも言った方がいいかもしれませんがそういう日本人の古来の生き方を現代でも貫こうということでもあるのです。果たしてそれは古臭いのかということです。今の時代、日本人とは何か、かつての先祖のような生き方が何かが語られることが少なくなってきました。歴史を紐解けば、そこには今の私たちまでつないでくださっている「義」があります。そういう義を結び、今の時代にどう復古創新するかはそのものの本筋や本流、本質からやり直す必要があります。
それはまさに全ての物事を何のために行うのかと原点回帰することであり、時代時代に不易と流行の中で本質を取り戻すための智慧でもあります。
歴史から学ぶのに歴史を捨ててしまえば歴史は紡ぐことができません。だからこそ古き暮らしを守ろうとする人たちが、顕れては古き伝統を伝承するためにいのちを懸けているのです。
一見、ただ古臭く見えるものの中に何のためにそれをやっているのかという意味が必ず隠されているものです。その意味を感じ取り、それを今の時代でも再現する。再現すべきはその意味の方であり、形の方ではありません。しかしその感性を磨くためには、古きものに触れる機会が必要なのです。
歴史の重みというものは、紡いで重ねてきた時間の重みのことです。代々大切に紡いできた心こそ温故であり、それをどう継承して生き方を正すかが知新ではないかと私は思います。
子ども達に遺せるもの、子ども達に譲れるものはほとんどカタチあるものではなく大切なのは先祖たちが命を懸けて守ってきたその生き方の方だと私は思います。引き続き、一期一会の学びを通して子ども第一義を貫いていきたいと思います。