歴史を学ぶとは何か

昨日、福岡県八女市で有名な町家再生の設計士の方とお会いしてお話をお伺いするご縁を頂きました。その方は、もうすでに八十以上の古民家の再生を手がけており町並み保存や文化財の調査、人財育成等々にいたるまでありとあらゆる活動を志で取り組まれている方です。

古民家の修景ではなく修理をすることを本筋とし、如何に後世に「本物を遺すか」ということを重んじられていました。現在は、ほとんどが予算の関係から町の景観だけをよくするために外見の見た目はそれ風にしますが本質的に古いものを修理修繕するわけではありません。そうではなく、丸ごと直すという観点で人、場、ものにいたるまでに全てに総合的に修理を手掛けておられました。

昨日は福岡の聴福庵を見ていただき、傾きをどのように修理すればいいかだけではなくまたこの古民家がかつてどのように使われていたか、そしてどのような修理を今まで行ってきたか、その歴史について色々と教えていただきました。

お話の中でもっとも印象に残ったのは、阪神淡路震災の御話でした。実際に文化財や古民家など震災後に壊れてしまい実際に調査をしたそうです。すると9割が壊されいたそうです。その実態を調べると、古いものには価値がないと業者が新築を勧めて壊していったものがほとんどだったそうです。古いものの修理修繕は無理だからと、文化財や古民家への理解がない人たちがそれまで大切にされてきた歴史を考えずに安易に取り壊してなくなってしまったそうです。

その方の『これは古いものを単に捨てて新しいものにしたのではなく、それは歴史を捨てたのだということに気づいていない』という言葉がとても深く心に印象に残りました。

よくよく考えてみると、家が何百年も続くというのはそれまでの先祖たちの暮らしや生き方、生き様、そういうもの遺っているということです。家では柱の傷などもそうですが、かつて子ども達がせいくらべした傷や落書きの傷、その他大切されてきたさまざまなものが「思い出」として間に宿っています。そういう観点で見れば文化財とは何か、それは歴史の宝そのものなのです。

そういう歴史を安易に捨てるということは、思い出を安易に捨てるということです。本来人は何のためにこの世に生まれてきたか、それは思い出を残すためではないかと私は思います。生き様を遺すと言い換えてもいかもしれません。一生一度、一期一会にこの地上の楽園に生まれ出てきたいのちに神様が平等に与えてくださっているものは「思い出」をつくれるということです。

このことから洞察すると今の時代は決して新しいものばかりが価値があると人々が信じている時代というわけではなく、歴史を大切にしなくなった人々が増えている時代に入っているということです。歴史というのは、先祖との対話です。先祖の生き方との対話を歴史を通して学ぶのです。古民家を通してその方がじっくりと先祖と対話しているのをみて、私は魂が揺さぶられました。

私自身、もっと先祖たちを尊敬し先祖たちの偉業と真摯に対話ができるよう歴史と正対していこうと改めて決心する有り難い機会になりました。新しい御縁はすべて学び直し、生き直しの大切な時機、このまま古民家から色々と教えていただけることに感謝して自他一体の自己修理を進めていきたいと思います。