先日、似て非なるものについて書きましたがこれはどの分野においても発生しているものです。例えば、自然農でじゃがいもを収穫しましたが全体的に丸く小ぶりなものばかりです。スーパーで買えばどれも大きく長い形のものが多いですがそちらの方が昔からあるじゃがいもと思っているものです。世間で流通し、いつも見ているものが本物というように思いこみます。
またこの場合の農の在り方も異なります。同じ農業であっても、そもそも野菜は育つものと信じて手入れをしていく考え方と、そもそも野菜は育てるものと信じて手入れをするのではそのかかわり方が異なります。
現在の慣行農法で肥料農薬と機械を使って行う方法から見れば、手で草を刈って被せて余計なことをなるべくしないのをみると、あれは農業ではないと言われるものです。しかし本来の日本人古来から野菜の姿というのは変わっていないものです。その野菜の姿を変えてまで収穫量を変化させようとするのは、どちらが本来の農業であったかは野菜を観れば明白なのです。
これは教育でも保育でも同じことだと私は思います。
昨日、ある人と話をする中で子どもの発達を信じ関係性を見守る保育をプレゼンしたところある大学の教授から「こんなの保育ではない」と言われたそうです。何をもってその言葉を言ったのかの真意が分からないのですが、きっと先ほど書いた農業の定義、慣行農法と自然農の違いを認識することと同じようなことが起きたのではないかと感じました。
もちろんどちらがいいとか悪いとかを議論しようとしているのではなく、野菜の姿まで変えていいものか、子どもの姿まで変えていいものかということに疑問を感じているのです。
本来の姿が合って、その本来の姿のままに育ててあげることがそのものらしさでありそのものの仕合わせだとも言えます。無理やりに、こちらの都合で相手を変えてしまうことで相手は本来の姿や本来の生き方ができなくなるかもしれません。
自然界というものは、それぞれに活き活きと伸び伸びと自分らしさを発揮して天から与えられた役割を楽しく生き切っているとも言えます。そういう太古から今まで連綿と続いてきたいのちの連鎖や魂の邂逅、そういう仕合せを享受される場がこの地上の楽園であったはずです。
それを無理やりに姿かたちを換えさせ、本来のことができなくなるというやり方が御互いを尊重しているとは私には思えません。
詩経に「鳶飛魚躍」という言葉があります。これは「鳶(とび)は飛んで天に戻いたり、魚は淵に躍る」という言葉です。辞書には「万物が自然の本性に従って、自由に楽しんでいることのたとえ。また、そのような天の理の作用のこと。また、君主の恩徳が広く及び、人々がその能力などによって、それぞれ所を得ているたとえ。鳶とびが空に飛び魚が淵ふちにおどる意」とあります。
本来のそのものの姿を守っていくことが、太古の昔から大切に絆を守りながら共生した仲間たちとの暮らし方です。今のように何でも人間の思い通りに変えてしまおうとするのはとても傲慢なことだと思います。知らず知らずのうちに刷り込まれていないか、他にもおかしなところはないかと学び直し見直す自戒の日々です。
自然の姿を守ろうとすることが自然に逆らわないことであり、自然と寄り添い生きる謙虚な姿勢でもあります。日々はまさに選択の連続、自分の布置がどうなっているのか、刷り込みを憎み人を憎まず刷り込みを取り払って精進していきたいと思います。