人は真心を磨くことによって徳を高めていくように思います。その中に智慧もまた生まれてくるようにも思います。そう考えてみると、人間関係というものの中に思いやりが必要でその思いやりに気づくためにも人間関係を学び直しているのかもしれません。
かつての古民家を調べていると、人と人との距離感の中に真心が入っているのを感じます。自分だけでは生きていないのだから、相手への配慮や相手への関心を持つこと、また自分が7割の居心地の善さに留めておいて3割は謙虚に自省していることなど、かつての暮らしには御互いを思いやる真心が随所に残っています。
今の時代は、明治維新以降の湾曲された西洋化が進み歪んだ個人主義が蔓延しているとも言えます。ちょうど町家を調べていたら様々な記録が残っているものも発見し、どのように日本が変わってきたかも次第に深まってきました。その中でもっとも大きかったのは、自分さえよければいいといった我儘な押し付け合いのような社会が広がっていったことのようにも思います。
現在のように人間関係で特に悩み、周りと隔絶しようとする人が増えるのも社会の影響を受けているのかもしれません。本来、人間関係というものは自分勝手なことをすればするほどに周りに迷惑をかけるものです。何もしなくても迷惑はかかるのだから、御互いに思いやりながら相手に尋ねて相手に聴いて自分自身の勝手な思い込みで動かないように気を付けなければなりません。
そのためにコミュニケーションがあり、対話を通して智慧を高めていくように思います。御互いが相手の気づかないところで相手を思いやることで徳が高まり、そして問題があって深く反省し自分を変えていくことで真心は磨かれていきます。
人は人を通して仕合せを感じますから、より仕合せを感じて豊かになるには真心を磨いていくしかないように私は思います。そして真心には終わりがありませんからこの真心を磨くというのはどんな人でも平等に一生涯の使命なのでしょう。
時折、感動し、また苦労し、悲嘆し、歓喜し、心を痛めたり平癒したり、いろいろありますがその中で真心が磨かれていることを忘れないようにしたいと思います。引き続き、真心を磨いていくことに専念し日々の内省を深めていきたいと思います。