実践の意味

昨日、永い間お会いしていなかった方とお会いすることができました。もう16年ほど前にご一緒してから、何度かご連絡したのですがすれ違いようやくお会いすることが出来ました。

ずっと永い間、お会いしていなかったものの会ってみるとすぐに懐かしく心が温まる有り難いお時間をいただくことができました。あの頃には分からなかったと、あの頃にはこんなに近くて同じ方向に向かって御互いに一生懸命であったことなど気づきませんでした。

お会いしてみると、子どものためにどれだけ深めてきたのか、また社会のためにとどれだけ盡してきたのか、どれだけ実践を積み重ねたのかが全身全霊の感覚で伝わってきて有り難く嬉しい気持ちに包まれました。

ご縁はとても不思議で、立場がどうであっても志が同じくしている人との出会いは本当に仕合せです。論語に、「遠方より朋来る・・」がありますが御互いに実践していることを学び合い語り合えれば瞬時に仲間であることを思います。改めて、学問の醍醐味に感謝します。

昨日印象深かった話に、レッジョエミリアの保育の話です。これを現在は、レッジョ・アプローチというが、実際はレッジョ・インスパイアであるということ。つまり、イタリアを真似ても意味がなく自分で実践してものにしていかなければならないということです。

自然農を実践していく中で、私も試行錯誤して取り組んでいますが真似しようとすればするほどに真似できず、何回やっても同じようにはなりません。その時、自然農の川口由一先生にどうしたらいいのかと尋ねると「田に独りで立ちなさい」と言われたことがあります。

その時から私は「田に独りで立つ」と覚悟し、自分で実践して咀嚼し自分で味わい自分でものにすると決心して今でも取り組んでいます。教科書があるのではなく、誰かが教えてくれるのではない。自分で学び自分で感じ取るものが本来の姿なのです。そのために教えてくれる先生は自然、自然から学び直し自分の中にある知識を削除していく作業をしていくのです。

昨日のお会いした方が「やるからこそ課題が観える、やるからこそ本では得られないことができる。そういう世界で生きている、臨床とも言う。子どもと向き合うのが仕事であれば、子どもに向き合ってみないとわからない。実践の意味はそこではないか。」と仰っていました。

人はやりもしないのに分かるはずがありません、それは知識や頭で分かったものは所詮分別された単なる切り取られた部分であって全体を掴んだわけではありません。コツを掴むこともなく、頭で知っただけでは焦りばかりつのって実際には現実がカタチになりません。

だからこそ分かった気にならないでいるには「実践する」しかないのです。実践というものは知識とは違って「積み重なる」ものです。つまりは集積していきます。ある程度、実践が集積すればその時からはそれが現実の世界で活用できる智慧に変化します。

知識を智慧に昇華するには、場数しかなくトライアンドエラー、そしてまたフィードバックという回数を徹底するしかありません。量がある一定の量を超えるまでやるということですが、質はそのあと自ずから転換されていくように私は思います。

どんなに大変であっても実践を怠らない理由はそこに在るのです。本来の力とは継続のこと、継続とは自分に打ち克つこと。そういう実践をするもののみが、現実の世界で真実を継承し次世代へ伝承していけると私は信じています。

改めて始まった御縁から、色々とまた御役に立てるように関わっていきたいと思います。御縁は本当に何度も何度も容を変えて、機会を得ては顕れますから感謝の心で引き続き精進していきたいと思います。